けて呼んでいたそうですから、多分その川越三喜の事蹟を、浦島太郎に附会してしまったものかと思います」
「川越三喜――なるほど、あれはわれわれの同職で、しかも武州川越の人なんだ。わしはこう見えても江戸ッ児だが、三喜も、江戸ッ児みたような、武蔵ッ児の、川越ッ児なんだ。川越はお前、今でこそ薯《いも》の産地だが、黄八幡の北条の旗風には、関東も靡《なび》いたものだし、天海僧正様の屋敷だし、徳川の三代[#「三代」は底本では「三大」]将軍もあそこで生れたというところだ。近くはお前、喜多川歌麿という艶っぽいこと天下無類の浮世絵師も出ているし、狩野派《かのうは》で橋本雅邦という名人の卵や、浅田信興という関東武士の黒焼のようなものも出かかっている、なかでも川越三喜ときちゃあ、わが党の方でも大したもので、立派に藪《やぶ》の域を脱している。しかし、その三喜が、こんなところへ引込んで、浦島気取りで釣をしていたということも、はじめて承りましたよ」
「左様でございますな、古書を調べてみますというと、三喜は、寛正の六年に武州川越に生れたとあります。医師となって長享元年に明国《みんこく》に入り、留まること十二年、明応七年に三十四歳で帰朝して、明の医術を伝えて、その名声天下にあまねく、総、毛、武州の地を往来し、天文六年二月十九日、七十余歳にして病歿と記してあるようでしたが、そうなると百二十説も少々怪しくなりますが、何か因縁はあったものと思われます」
「左様《そう》さね、お説の通り、三喜は寛正の六年の四月八日に生れたんだ、お釈迦様《しゃかさま》の日だからよく覚えていますよ。何しろ名医は名医さ、古河公方《こがくぼう》を中心にして、関東の平野を縄張りにしていたのだが、長谷村の一向寺というのにお像《すがた》があって、神様扱いを受けている。日本に名医ありといえども、お像を神に祀《まつ》られているのは、東大寺の鑑真大和上《がんじんだいわじょう》と、川越三喜だけだ、同じ藪《やぶ》でもこちとらとは、格が違わあ。しかし、こちとらだってなにも卑下するがものはねえのさ、後世になれば、十八文の貧乏神に祭ってくれるものがねえとも限らねえ」
道庵が、つまらないところで痩《や》せ我慢をいうと、僧形《そうぎょう》の同職も笑って、
「ハハハハ、左様でございますとも、後世になれば、先生と、甲斐の徳本大人《とくほんうし》とを合わせて、平民医道の二柱の神として祭るものが出て来ること請合《うけあ》いです」
「そう言われると、ちっとばかり恥かしいのさ、徳本は、拙者の先輩だが、道三の三喜におけるが如き出藍《しゅつらん》ぶりがねえから、お恥かしいよ」
そうして、門前につないでおいた馬に跨《また》がろうとした時に、弾丸の如く走《は》せ来《きた》って、飛びついたものがあります。
「先生、いいかげんのことがいいぞ」
やにわに飛びつかれたので道庵は、一たまりもなく、馬からころげ落ちてしまいました。
馬から転げ落ちた道庵を、土まで落ちない先に受け留めた米友は、それを馬の背の上へ押し乗せて、自分がその口を取って走るというよりは、馬の口にブラ下がって走りました。
こうして米友が、川岸の溺死人の騒ぎ場へ道庵を連れ込んだのは、長い時間の後のことではありません。
現場へつれて来られてから後の、道庵先生の働きぶり。
道庵はまず、かけつけて、畳をむしりこわしたりなんぞして、藁火《わらび》を焚《た》いて、溺死人をあぶって騒いでいるのを押しわけて、その被害者を一応診察して、助かるべきものか、助かるべからざるものかを検断して、これは助かるという見込みをつけました。
「肛門から出血もしていないし、手足も硬直しているというわけではない、水は飲んでいるが、そう多分のことはない、多分のことはないが、それを吐かせきってしまうのが急務だと考える」
こう考えたものでしたから、米友をして、この溺死人の両足を肩にかけて、充分に身をかがめさせて、二十間ほど走らせました。そこで溺死人が、飲んだ限りの水をブクブクと吐きつくしてしまった時、米友が、また以前の場所に立戻った時は、死人は立派に生き返っておりました。
その一方、道庵は土地の人を指図して、河原の砂の上に火をたいて、暖かくしておいて、その上に被害者を寝かせて、なお砂を火であぶらせて、その熱いのを、別府の浜の砂湯でするように、被害者の五体の上へ、眼と口だけを残して覆いかけました。
そうして、一ぷくしている間に釣台が出来たものですから、すっかり元気を回復した被害者を、ともかくそれに載せて、最寄《もよ》りの人家まで運ばせることにしました。
誰も、この時の道庵の扱いぶりの洒々落々《しゃしゃらくらく》として、手に入り過ぎて、人を食った振舞を見て、餅屋は餅屋だと思わぬ者はありません。
米友は、道庵
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