、川狩りが今日は休みでございます」
僧形の同職がこう言ったものですから、道庵は聞きとがめて、
「川狩りの検分というのは、何ですかね」
「それは、その、木曾のお山から伐《き》り出しました材木を、この木曾川から流し落すのでございます、これがまた他国では見られない見物《みもの》でございましてな」
「なるほど」
「谷に沿うたところには椹《さわら》が多くございますが、奥へ行くと檜《ひのき》が多いのでございます、千古《せんこ》斧斤《ふきん》を入れぬ檜林が方何十里というもの続いているところは、恐ろしいほどの壮観でございます。伊勢大神宮の御用林もその中にございます。それを、高さ二十間もある大木を、この辺の樵夫《きこり》は手斧《ておの》で伐り倒しますが、その技《わざ》の鮮やかさは、これも他国の者が舌を巻いておりまする。そうして、それを高いところから、時とすると五千尺も高いところから、その材木を渓《たに》へ向ってすべり落させる、それがまた命がけの仕事なんで、材木を渓谷へ落し込んで置きまして、秋の出水を待って、筏《いかだ》に組んで、木曾川の下流へ流すんでございますが、それを川流しとも、または川狩りとも申します」
「なるほど」
「もう少し御逗留《ごとうりゅう》になりますと、その川狩りの壮観をごらんに入れるのでございますが、今日はあいにくお役人の検分で……二三日しますと、上手《かみて》から流れて来た巨大なる材木が、この寝覚の床へ来ますと、この通り急に水路が縮められているものですから、幾十万本の材木が、矢の如く流れて来ては、岩にぶっつかり、材木は材木の上へ乗りかかったり、横積みになったりして、鯨のお日待《ひまち》のように累々と積み重なりますところを、熟練した川狩りの人夫が、長い鳶口《とびぐち》をもって、これを縦横に捌《さば》いて、程よく放流してやるめざましさは、さながら戦場そのままだと、見る人で驚かないものはございません」
「なるほど」
「それにもう一つ、川狩りから出た材木は、使用する人に賞美されましてな。それというのは、いったん川水を十分に含んで、それから後乾燥して縮まりますから、使用した後に狂いが来ないそうでございます。ほかの方法で運び出した材木は、そうはいかない、どうも狂いが出て困ると、その道の大工が、この川狩りの材木を賞美するのも奇妙でございます」
「なるほど、木は山から伐って、川を流して、人に使われるように出来てるものだな」
「いかがですか先生、ここを下りますると、あの一枚岩の上へ出ますが、酒肴《しゅこう》を持たせてあれへ参り、あの上で風景をながめながら、お話を伺いたいものでございます」
僧形の同職がすすめるのを道庵は、首を横にふって、
「まあ、せっかくだが、興は満なるを忌《い》むということがあるから、この辺でチビチビやりながら、寝覚の床を鷹揚《おうよう》にながめて、貴殿の人国記を承っていれば、もうもうこれ以上は罰《ばち》が当る、このうえ押して、谷からすべり落ちて、川へでもころげこんでごろうじろ、生きちゃあ帰れねえ、ホラ、この通りの足もとなんだから」
といって、道庵は、フラフラと立ち上って見せました。
道庵の足もとのあぶないのは、今にはじまったことではない。その足もとのあぶないことを自覚して、そうして、多少の冒険をも慎《つつし》もうとするところに、道庵の聡明さがあるといえばあるのです。
「足もとが、こんなだから、足もとの明るいうちに失礼して帰ると致しましょう、どうもはや、おかげさまで寝覚の床をとっくりと見物したから、寝ざめの悪いこともござるまい――ああ、そうだ、浦島の伝説、あれはあんまり当てにならねえ」
といって道庵は、あぶない足もとを踏みしめて縁を下りました。
かくて上々機嫌で、臨川寺の方丈の縁を下りた道庵先生は、門前につながせた馬に乗ろうとして、例の僧形の同職に送られて庭を歩く途中、寝覚の床を眼八分に見渡しながら、
「しかし、ここで浦島太郎が釣を垂れたというのは、少少怪しいね。そもそも浦島が子の伝説は……」
と道庵は、古事記や、日本書紀をひっぱり出して、浦島の人別《にんべつ》を論じて、どうしても、あの時代に浦島太郎が、木曾の山中に来て釣をするなんていうことはない、と断定しました。
僧形の同職は、それを聞いて同感の意を面《おもて》に現わし、
「御尤《ごもっと》もでございます、浦島太郎が、この寝覚の床で釣を垂れたというのは、全く証拠のないでたらめでございますが、一説には、こういう話がありますんですな、足利《あしかが》の末の時代でもございましたろう、川越三喜という名医が、この地に隠栖《いんせい》を致しましてな、そうして釣を垂れて悠々自適を試みていましたそうですが、その川越三喜は百二十歳まで生きたということで、土地の人が、浦島とあだ名をつ
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