が、現在のあなたの総《すべ》てを亡ぼしてしまうのみならず、過去の功徳《くどく》をも、未来の果報をも、みんなその怒りの一念が、焼き亡ぼしてしまうのでございます、怖ろしいことではございませんか」
と言って弁信法師は、また立ちどまって、戦《おのの》きました。
「その瞋恚《しんい》というものは……」
 弁信は見えぬ眼を上げて、高く、暗黒の空の一辺をながめ、
「瞋恚というのは、十種|煩悩《ぼんのう》の一つでございまして、また三毒の、その一つでございます。ひとたびこの煩悩の虜《とりこ》となり、この悪毒に触れまする時は、賢者も愚者となり、英明の人も混濁《こんだく》のやからとなり、英雄も弱者となり――数千劫《すせんごう》の功徳を積んだ聖僧でさえも、一朝の怒りのために、積薪を焼くが如く、その功徳を亡ぼしてしまいます。されば三界のうち、色界《しきかい》、無色界の二つの世界には、その怒りというものが無く、ただ欲界散乱のところにのみ、その怒りがあるのだそうでございます……千劫の間、積みたくわえた布施《ふせ》も、供養《くよう》も、善行も、一瞋恚の火によって、茅《かや》の如く焼き亡ぼされるということを、釈尊もお示しになりました――お嬢様、大抵の人は、憤怒は人から卑しめられ、或いは他より辱《はずか》しめられた時に起るのでございますが、あなたのは、人を卑しみ、人をのろうの心から起っていることを、私は蔭ながらお察し申しもし、また御同情も申し上げているのでございます」
 弁信法師は、ソロソロと歩み出して、
「しかし、どちらに致しましても、忍《にん》の道は一つでございます、憤りを鎮《しず》めるの道は、忍の一字のほかにはあるものではございません、たとえ、大千世界を焼き亡ぼすの瞋恚の炎といえども、忍辱《にんにく》の二字が、それを消しとめて余りあるものではございます、どうぞ、お忍び下さいまし」
 そこで、弁信はまた立ちどまって、方向の違った天の一角をながめました。ながめる形をしたのですから、天の一角に何があるか知れたものではありませんが、牛飼座《うしかいざ》あたりの星が一つ、真暗な天地に戸惑いをしたもののように、残されておりました。
「あらゆる戒行《かいぎょう》のうち、忍辱《にんにく》にまさる功徳《くどく》は無いと釈尊も仰せになりました。それにもかかわらず、忍べないのは正観《しょうかん》の智力が足りないからでございましょう、正しく物をみることの余裕を奪われたその瞬間から、憤怒の炎が吹き出して参るものでございます。雑念、妄想の世界を離れて、空無相の本体をごらんになれば、そこに怒るべき我もなく、怒りを移すべき人も無いはずではございませんか――」
 弁信のひとり言は、ここで一段落になったけれども、言葉が終ると共に、弁信の鋭敏な頭のうちに、お銀様というものの姿がありありと現われました。
 弁信は、お銀様というものには少しも悪意を持っていないのです。悪意を持つべきいわれもありませんけれど、親しく生活して、たがいに打ちとけ合ってゆくうちに、お銀様という女の人の性格に、非常にいいところのあるのを、何人よりも多く発見しているのが弁信であります。家の者全体が、その父親でさえが、腫物《はれもの》にさわるようにあしらっているお銀様という人を、弁信のみが、寛宏《かんこう》な、鷹揚《おうよう》な、そうして、趣味と、教養の、まことに広くして、豊かな、稀れに見る良き女性だと信じ、且つ親しむの念を加えてゆくことができるというのが、不思議です。
 しかし、お銀様自身は事毎《ことごと》に弁信に向って、自分の形相の、悪鬼|外道《げどう》よりも怖ろしいことを説いて、それを怨《えん》ずる度毎に、例の瞋恚《しんい》のほむらというものに油が加わることを、弁信は手にとるように見ているのです。
 だが、幸か不幸か、お銀様自身が吹聴する容貌の醜悪なる所以《ゆえん》を、弁信には見て取ることができません――この点は、机竜之助の見る眼と、性質を根本的に異にして、その作用は一つなのであります。
 竜之助は、容貌の人としてのお銀様を知らずして、肉の人としてのこの女を、飽くまで知りました。弁信は今、その他のものに盲目にして、心の人としてのお銀様を見ることに親切でありました。
 弁信の前にのみ、傷つけられざるお銀様の、少女としての、処女としての、大家の令嬢としての品性が、美しくえがき出さるることがあるのであります。弁信のみが、彼女の僻《ひが》めるすべての性格を忘れて、本然《ほんねん》の、春のように融和な、妙麗なお銀様の本色を知ることができるらしくあります。
 しかし、ひとたび、物に触れて彼女が、その怖るべき瞋恚の一念に駆《か》られて、満身の呪詛《じゅそ》を吐き出し来《きた》る時には、さすがの弁信といえども、それに一指を加えることができ
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