小耳にはさんだ米友が、ははあそれでは、木曾は尾張の御領分だと聞いたから、尾州家のお山めぐりの役人が出向いて来て、そうしてこの災難だなとさとりました。
だが、尾州家の役人なるがゆえに、尻ごみをして出ないという、この土地の医者のぞろっぺい[#「ぞろっぺい」に傍点]を憐れむにつけ、わが道庵先生――米友の眼と、心とを以てすれば、天下に一つあって、二つはない名医の道庵先生ともあるべきものを、現に自分が同行の光栄を有し、自分が頼みさえすれば、いや、頼まなくともこういう際には、十二分に出しゃばるべき先生を、ついした自分の粗忽《そこつ》から置き忘れてしまった腑甲斐《ふがい》なさを自ら憐れみ、悼《いた》み、くやみ、あせり、憤るの情に堪えません。
そうして、彼は街道筋へ出たけれども、さて次へ進んでいいのか、後へ戻っていいのか、その事さえわかりません。次の須原駅までは三里五町、あとへ戻って上松までは僅かに十町という観念があってしたのではないが、米友は本能的にあと戻りをしました。それはつまり、臨川寺から現場までは岩石の間を宙を飛んで歩いたが、街道筋は残している。そこに多少の心残りがあったのでしょう。
「先生、道庵先生!」
彼は相変らず、声高く叫んで飛び走りましたが、徒《いたず》らに、通る人の驚動と、指笑とを買うに過ぎません。
ここに於て、米友は確かに血眼《ちまなこ》になっている。血眼にはなってはいるけれども、狼狽《ろうばい》ということはないのです。その証拠には、例の唯一の武器たる杖槍《つえやり》も、ちゃんと肩にかついでいるし、携帯の荷物も、懐中に入れた精製の熊胆《くまのい》も、決して取落してはいないのです。
「どうも仕方がねえ、運の悪い時には悪いもので、物が行違いになる時には、行違いになるものだ、おいら一人がやきもきしたって、助かるものは助かる、助からねえものは助からねえんだ」
米友にもまた聡明がある。人力の及ぶべきところと、及ぶべからざるところとを、このごろ、ことにお君を殺してから、つくづくと悟ったもののようです。
ですけれども、天性の正直から来るところの短気は、持って生れたもので、急にどうすることもできません。
血眼になって、あせりきって、歯噛みをして、地団太を踏みつづけながらも、どこか心頭の一片に鉄の如きものがあって、あらゆる短気と、焦燥《しょうそう》とを圧えきっている。
そうして彼は、臨川寺の門に程近いところまで来ると、どうも再びその門の中へ踏み込んでみたくなりました。
ここは、もう一応確めてみねばならぬところだと思いました。
二十九
宇治山田の米友をして、こんなにまで気を揉《も》ませておきながら、道庵先生は何をしている。ちょうど米友が寝覚の床の一枚岩の上に立ちはだかった時分に、先生はようやく臨川寺《りんせんじ》の方丈に着きました。そうして、方丈の毛氈《もうせん》の上へ坐り込んで、そこで寝覚の床の全景を見下ろしながら、早くも一瓢《いっぴょう》を開いたものです。
道庵先生と相対している、同じ年配の、頭だけを僧体にした見慣れない人品《じんぴん》が一つあります。これはこの寺の方丈ではありますまい。頭を丸くしているところから推《お》してみると、御同職のお医者さんであるらしい。この辺に何かの縁で知己のお医者さんがあったのか、そうでなければ途中、ゆくりなく旧知同職にめぐり逢って、ここまで相伴うたものか、もしまた医者でないとすれば、俳諧師とか、茶人とかいったような人で、人品から言って僧侶でないことは明らかです。
道庵はと見れば、これは頭の恰好《かっこう》が、また少し変てこになりました。剃《そ》り上げて百姓にしてみたけれど、気がさしてならない。まして夏でも寒いという木曾のあたりを通ってみると、剃り慣れない頭へ風がしみてたまらないらしい。そこで髻《もとどり》を以前の通りにクワイの把手《とって》にしてみましたが、前髪のところに、急に毛生薬《けはえぐすり》を塗るわけにもゆかないから、熊の毛か何かを植え込んだ妙な形のハゲ隠しようなものを急ごしらえにして、ゴマかしてあるようです。しかし、ゴマかし方が器用なものですから、ちょっと見には誰も気がつかないから占めたものです。
かくて、臨川寺の方丈の上で、道庵先生と、僧形《そうぎょう》の御同職(仮りに)とは相対して、酒をくみかわしながら、寝覚の床をつるべ落しにながめて閑談をはじめました。僧形の同職が先以《まずもっ》て言いけらく、
「いかがでござる、道庵先生、木曾街道の印象は……」
「悪くないね」
道庵が仔細らしく杯《さかずき》を下へ置いて、
「第一、この森林の美というものが天下に類がないね……尤《もっと》も、ここに天下というのは日本のことだよ、日本だけのことだよ、同じ天下でも支
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