那のことは知らねえ、崑崙山《こんろんさん》や、長江《ちょうこう》の奥なんぞは知らねえ、アメリカのことも知らねえ、日本だけの天下ではまず……といったところで、薩摩の果てや、蝦夷松前《えぞまつまえ》のことは知らねえ、甚《はなは》だお恥かしいわけのものだが、まず愚老の知っている範囲で、木曾の森林にまさる森林は、限られたる天下にはあるまいね」
「御尤《ごもっと》ものお説でございます、森林の美は木曾にまされるところなしとは、先生のお説のみならず、一般の定評のようでございます」
「そうだろう、第一、色が違わあね、この堂々として、真黒な色を帯びた林相というものが、ほかの地方には無《ね》え」
「樹木の性質と、年齢とが違いますからね。まずあの檜林の盛んなところを御覧下さい」
「なるほど、檜《ひのき》だね。檜は材木としては結構だが、こうして大森林の趣にして見ると、なるほど檜は材木の王だ。椹《さわら》も大分あるようだが、あいつも悪くないね」
「左様でございますよ、御承知の通り檜に椹、それから高野槙《こうやまき》と羅漢柏《あすひ》、※[#「木+鼠」、第4水準2−15−57]《ねずこ》を加えまして、それを木曾の五木と称《たた》えている者もあるようでございます」
「なるほど。森林美も大したものだが、これを金に踏んだら素敵なものだろう」
「富にしても、容易ならぬ富でございます」
「尾州の奴、うまくやってやがらあ……」
と道庵は、あぶなく口が辷《すべ》って、それを取返すもののように、
「尾州様も大したものをお持ちなさいますねえ、お金にしたら大したものでござんしょう、木曾は尾州様のお金倉だ」
イヤに改まったものですから、僧形《そうぎょう》の同職も高らかに笑い、
「全く、その通りでございます、木曾は尾州家の無尽蔵《むじんぐら》でございましょう、それにつきまして、こんな話がございます」
僧形の同職もまた改まったから、道庵も少し改まって、
「どんな話?」
「左様でございます、天保の水野越前守様の御改革の時でございました」
「なるほど」
「あの時分、大公儀もずいぶん、経済には難渋しておいでになりましたからな」
「今だってそうだよ、今だってふところ[#「ふところ」に傍点]工合《ぐあい》はよく無《ね》えんだよ、何しろ八百万石の台所で、時代を経るに従って、子孫が贅沢《ぜいたく》は覚える、諸式は高くなる、江戸の親玉もやりきれねえのさ。そこでふところが寂しくなると、人に足もとを見られるようになる」
そろそろ、道庵の返事が脱線しかけたのを、僧形の同職はさあらぬ体《てい》にもてなして、
「何しろ大公儀にしても、われわれにしても、暮し向きは財政が元でございますからなあ、そこで天保の改革の時に水野越前守殿が……何といっても、あのくらいの豪傑でございますから、早くもこの木曾の森林に眼をつけてしまいました」
「なるほど」
「尤も、それとても越前守殿が眼をつけたというわけではごわせんが、しかるべく建議をしたものがあるんでございましてな」
「何といってね」
「尾州領のあの木曾山を三年間、幕府へお借上げになりますならば、当時幕府の財政も充分に整理ができる見込みだと、こうそれ、越前守殿に吹込んだものがあるんでございますな」
「よけいなことを吹込みやがったね」
「尾州家にとってはよけいなことですが、幕府の財政整理のためには、無類の妙案なんでございましょう、越前守殿ほどの鋭敏な政治家が、それをなるほどと思召《おぼしめ》さないわけにはゆきません」
「なるほどと思ったってお前、親藩とはいえ、他領ではないか、どうなるものか」
「しかし、時勢が時勢でございますからなあ。それに、執権がボンクラ大名と違って、名にし負う水野越州でございますから、直ちにそれを採用して断行することになり、尾州家を呼び出し、将軍の御前において、水野越前守殿自ら、この趣を尾州家に申し入れようとの段取りとなりました」
「さあ、そこだ……そこで尾州の奴、何と出た……様、様、様、様」
道庵がここで、あわわをするように口を抑《おさ》えました。僧形の同職は少しもひるまず、
「左様、その時、尾州を代表して、江戸城へ罷《まか》り出でたものが、尾州の家老鈴木千七郎殿でございました」
「なるほど、こいつは大役だ、家老、骨が折れるだろう、何しろ天下の将軍の面前で、水野越前守を向うに廻すんだからなあ、この役は大役だ、道庵が買って出てもいい役だ」
道庵が一方ならず力瘤《ちからこぶ》を入れましたが、僧形の同職は相変らぬ調子で、
「そのお召しによって、江戸幕府へ罷《まか》り出でた鈴木千七郎殿は、尾州家の家老でございましてな」
「そりゃ大抵きまっているだろう、ヘタな人間は出せないからな、家老でも、大石内蔵助どころでなくっちゃあ勤まらねえ、九太夫なんぞをやって
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