を、米友も歯がゆく思わないわけにはゆきません。
「おい、医者だよ、お医者さんだよ、餅屋は餅屋だから、お医者を呼んで来ることが第一だ」
と米友が声高く叫びました。
「そのお医者が、留守なんでございますよ、出払ってしまいました」
「ちぇッ」
米友はここでも地団太《じだんだ》踏んで、焦《じ》れったがりました。
「おい、早く火を焚きな、火を。そんな……丸太ん棒を持って来たってどうなるもんか、藁火《わらび》だ、藁を持って来いやい」
と、米友が歯がみをして叫びました。
「その藁というものが、この地方には無《ね》えんでございます」
「ちぇッ……藁が無けりゃ、藁の代りになりそうな、麦稈《むぎわら》でも、茅《かや》でも、それが無けりゃな、人の家の畳でもむしりこわして持って来《き》ねえな」
と、米友が三たび叫びました。
だが、米友としても、地団太踏んで、こうして無茶に指図がましく人をがなりつけたけれども、これ以上に、どうしたら、差当っての救急療法かということを心得ているわけではありません。
取巻いていた一団の武士階級も、その辺にはかなり抜け目があるらしい。大小を取って、衣類を脱がせて、裸にして、水を吐かせて、相当の摩擦を加えてみようとの機転も利《き》かないらしく、せめて柔術《やわら》の手で、活法を施してみようとの修練も欠けているようです。この武士階級――特にこの人々に限ったことはないが、当時の武士階級の大部分は、算盤《そろばん》は持てても、刀の持てなかった人はかなりに多く、甲冑《かっちゅう》の着ように戸惑いしたのは、長州征伐の時の江戸の旗本の大部分のみとは限らないでしょう。
平常の修練がないから、非常の狼狽がある。それは歯痒《はがゆ》いわけだが、宇治山田の米友もここに至って、彼等の狼狽を憤るほかには、何と差当って、その応急手段を講ずることに無力なのを自分ながら、いらだたないわけにはゆかぬ。
「ちぇッ、いかに山家《やまが》だって、医者というものが無えのかなあ」
こういって、四たび、地団太《じだんだ》を踏んだ時に、火打石をさがす自分の手に、提灯《ちょうちん》があかあかと点《とも》っている間抜けさをさとりました。
「そうだ、こういう時の、おいらの先生じゃねえかい、道庵先生はお医者の名人だ、下谷の長者町の道庵先生に限る」
と気がついたけれども遅い、その先生はここにいないじゃないか。一緒につれ立って影の形におけるが如くあるべきはずの、また今日まであって来たところの先生が、この時、この際、先生でなければならない時、その先生ありさえすれば、死ぬべき人が生きて助かるべき際……いないじゃないか。
「ちぇッ、世話の焼けた先生だなあ、人に助けられるばかりが能じゃねえや、ちっとは人も助ける気になれねえものかなあ」
米友は、五たび、六たび、そこで地団太を踏みました。ほんとうに米友の口惜《くや》しがる通りです。尋常に自分も道庵先生のともをして歩きさえすれば、こういうところには、思いきり溜飲《りゅういん》が下げられたものを。自分たちが溜飲を下げて痛快を買うのみならず、人の一人が立派に助かって、その功徳《くどく》と感謝は、測り知らるべきものでもないのに、みすみすその機会を逸して……口惜しい。人を打懲《うちこ》らし、取挫《とりくじ》くの力においては自信の有り余る米友が、人を救う段になると、溺死人の一人をどうすることもできないのを、身も世もあらぬほどに口惜しがって、
「ちぇッ、その立派な医者を、おいらがひとつ探して来るから、それまで死なさねえようにして置きな」
と言い置いて米友は、驀然《まっしぐら》に走り出しました。
どこを当てともなく走《は》せ出しましたが……このいい残して置いた言葉は無理です。
道庵先生、いかに神医なりといえども、いつどこで探し出されるか知れないものを、そのあてどのない尋ね人を探して来るまで、死ぬべきものを死なさずに置けとは、米友の注文が無理です。
扁鵲《へんじゃく》もそう言っている、「越人《えつじん》よく起すべき者を知って之《これ》を起す」
しかし、無理であってもなくても、火の玉のようになって飛び出した米友を、如何《いかん》ともすることはできません。
坂をかけ上ると、そこで、土地の人のふるえながら語るのを聞きました。
「尾州様の、お山係りの殿様が水にはまっておしまいになった、医者を、医者を、とおっしゃるけれども、尾州様の御家中の脈をお見せ申すような医者が、この宿《しゅく》にはござらねえ、山竹老へ持ち込んだら、おぞけを振《ふる》って、もしやお見立て違いをしては首が危《あぶ》ねえといって、逃げてしまった、藁火《わらび》をたけとおっしゃるが、ここは山里で藁というものがござりましねえから、今、畳をむしりこわしているところでございますよ」
それを
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