じゃねえか、それにこの通りの岩だろう、つかまえどころがあるめえ、土左衛門だ、わが道庵先生を木曾川まで連れて来て、土左衛門にする奴も奴だが、させる奴もさせる奴だ。
「ちぇッ」
米友は、自分の身体《からだ》へ火がついたように、あせり出しました。
「ほんとうに世話の焼ける先生だ、油断も、隙も、なりゃあしねえ」
米友、いかに俊敏なりといえども、寝覚の床の岩石の上を走るには、そう短気一方にばかりはゆかない。
「ちぇッ」
幾度か舌打ちをして、もどかしがり、子獅子《こじし》が千仞《せんじん》の谷から、こけつ、まろびつ、這《は》い上るような勢いで、川下の、その川流れの、溺死人《できしにん》の、独断の推定の道庵の土左衛門の存するところに、多数が群がり集まって、罵り騒いでいる方向に飛んで行きました。
しかし、その間にも、単に激憤するばかりではない、道庵先生の世話の焼けることの甚《はなは》だしいのに業《ごう》を煮やしているばかりではない、一面には例によって、自分の責任感に激しくむちうたれているのは事実です。
「先生……道庵先生」
ようやくにして群集のところへ近づきました。
ようやく河原の人だかりのところへ行って見ると、宇治山田の米友は、そこで大いに騒いでいる群集の中に、多くの武士階級の人を認め、事件の中心は、この武士階級の人であるなと思いました。
だが、溺《おぼ》れて、そうして救われたか、救われないか、でいるその人は、たしかにわが道庵先生にきまっている。
米友は最初から、そう断定してかかっているのですから、
「御免なさい、その川流れというのに一目逢わせておくんなさい、気がせいてたまらねえ」
人を掻《か》きわけるようにして寄って見ると、そこには道庵らしい人は見えません。
被害者として、それは武士階級の人の間に、非常な狼狽《ろうばい》と、心痛とを以て、取囲まれているその人は、やはり武士階級の人であることを、米友は人を掻きわけて近づいた瞬間にさとって、それでは道庵先生ではなかったのか! とひとまず安心をしました。
これは溺死人あり、すなわち酔っぱらいの道庵先生――と独断してかかった米友の頭の問題ですから、ここで当てが違って、まず胸を休めたのは、まあ、よかった! という感じでありました。
かりそめにも自分の主と頼んで来た道庵先生が、被害者の当人でないという見極めのついた宇治山田の米友は、一時は重荷を卸したようにホッと息をつきましたけれども、再考すれば、不幸はどこにあっても不幸です。誰の上に落ちて来ても、不幸は不幸に相違ない。溺死という不幸が、自分の身に最も親近の道庵先生の上に落ちていなかったということは、まず安心には相違ないが、同じような不幸が、他の何人《なんぴと》かに落ちていたとすれば、それを憂うる心が二つであってはならぬ。道庵先生でなくってよかったという安心は、他の人だからかまわないという理窟にはならない。
溺れた人の不幸は、自分に親近であると否《いな》とに拘らず不幸である。親近なるが故の同情は、他人なるが故に同情の価なしという理窟にはならない。
そこで米友は第二段として、当然、わが道庵先生の身代りに立たせられたような不幸の人を、見舞うの心を抱《いだ》き起させられました。
「水を飲んだかね、怪我はしなかったかい」
といって、武士階級の人の間にわけ入りました。
しかし、狼狽、混沌の限りを極めている人々は、この奇怪なグロテスクの見舞に、さのみ注意を払うものがありません。従って、その見舞の言葉に、明確な謝意を表するものもないのです。
そこを米友は、かなり無遠慮に近寄って、現在の被害者をまともに見舞いました。それは只今、川から引き上げられたままの一人の若い、この武士階級の仲間のうちでもかなり身分のありそうな若い人が、引き上げられて正体なく、沙上《さじょう》に置かれていると、それを取囲んで、
「御主人様」
「鈴木氏」
「気を確かに持たっしゃい」
「おーい」
「鈴木氏――おーい」
口々に叫んで、それを呼び生かそうと努力することのほかには、他念がないらしい。
呼び生かそうとは努力するが、その努力は狼狽《ろうばい》を伴っているから、いずれも無効です。努力すればするほどに、要点を外《はず》れてしまって行くのです。
「火を、早く火をお焚き下さい」
「おい、早く焚附を、薪を持て」
「薪ではいけない、藁火《わらび》を……藁を」
彼等は口々に騒ぐけれども、この武士階級を取巻いている土地の人が、かなり輪をかけた狼狽ぶりで、ほとんど物の用をなさないらしい。
「何よりも早く医者を、医者を呼べ、医者を呼ぶことが急務だ」
喧々囂々《けんけんごうごう》として、騒いで且つ狼狽するがために、いよいよ救急の要領を外れ、努力の能率がみんな空費されてしまうこと
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