の桟《かけ》はしがある、御岳山《おんたけさん》がある、御岳の鳥居が見える。尾州家の禁山になっている木曾の川の材木流し、といったような名所にも、風流のあとにも、相当に足を留めなければならないところを、まっしぐらに走って来て、さて寝覚の床は、と尋ねたものですから、尋ねられた者を驚かしました。
 しかし、教えられた通りに寝覚山|臨川寺《りんせんじ》の境内《けいだい》まで馳《は》せつけたのは、格別手間のかかることではありませんでした。
 臨川寺方丈の庭より見下ろす寝覚の床。そこへ来て見ると案の如く幾多の旅人が指をさし、眼をすまして、その好風景を観賞しているにはいるが、道庵の姿らしいのは一つも見えない。
 弁天の祠《ほこら》の下、芭蕉、也有《やゆう》の碑のうしろ、そこを探しても先生らしいのはいない。
 もしや、例の癖で、酔うて沙上に臥《ふ》す、なんぞと洒落《しゃれ》てはいないかと、方丈の松の根方や、裏庭に廻ってみたけれども見えない。茶を配る小坊主に、その人品骨柄を説いて聞かせたけれど、さっぱり合点《がてん》がゆかない。もう一旦、ここへ来てながめた上に立去ったのか、まだここへは来ていないで、途中へひっかかっているのか、その辺の見当もつかない。後者であるならば、ここに相当の時間を待っていさえすれば、必ず一度は訪れるものに相違ないが、前者であった日には当てが外《はず》れる。
 見ていると、遊覧の人のうち、気の利《き》いたのが寺の前庭から、岩を伝うて下へ降る様子である。
 ははあ、あそこから下りられるんだな……と合点して、たずねてみると、ここで見るのは寝覚の床の全景――ここを下ると横幅十間、長さ四十間の寝覚の床の一枚岩の上に出られるのだという。
 そういうことなら、この下が本場なんだ。多分本場のその幅十間、長さ四十間という大岩の上あたりで、飲みながら、わが道庵先生は、太平楽《たいへいらく》を並べているのだろうと米友が思う。
 そこで岩角をくぐって下りてみる。この路はかなりあぶないが、米友の足では何でもない。そうしてまもなく木曾川のほとり、寝覚の床の一枚岩の上まで、難なく米友は下り立ったが、そこにはまだ誰もおりて来ていない。
 米友ひとりが、寝覚の床の一枚岩の上に、脚下に滝なして漲《みなぎ》る水の深さもはかりがたく、目もくるめく心地するというところの上に突立ちましたが、道庵の姿はいずれにも見えません。
「素敵《すてき》だなあ」
と宇治山田の米友が言いました。木曾第一の勝景と称せらるる寝覚の床の一枚岩の上に立っても、米友としては、これ以上の嘆称の言葉は吐けないのでしょう。
 その神工鬼斧《しんこうきふ》に驚嘆して歌をつくり、または古《いにし》えの浦島の子の伝説を懐古してあこがれたりするようなことは得手《えて》ではありません。また地質学上や、風景観の上から相当の見識を立てることも、この男の得意ではありません。
 ただ、平凡な景色ではないという印象が、単に「素敵だなあ」の一句に集まって、「ナンダつまらねえなあ」とけなされなかったことだけが、寝覚の床の光栄かも知れない。
 米友が空《むな》しく、その好風景の岩の上に立っていると、その時川で遽《にわ》かに人の罵《ののし》る声がします。
「川流れだあ」
 この声で米友が思わず飛び上って、例の地団太《じだんだ》を踏みました。
「ちぇッ」
 地団太を踏んで、激しく身ぶるいをすると、
「川流れだあ」
 続いて罵《ののし》り騒ぐ声がするものですから、
「それ見たことか」
 米友は身ぶるいして、槍を取り直して意気込みました。
「だから言わねえこっちゃねえ」
 彼は再び、まっしぐらに岩から岩を飛んで、声する方に走り出しました。
「ちぇッ」
 走りながらも、身をふるわして憤《いきどお》りを発しているところを見ると、その川流れ! という叫び声が、米友をして、われを忘れて憤りたたしめたものに相違ない。
「だから、言わねえこっちゃねえ」
 ただ遠音《とおね》に、川流れの警告を聞いただけで、米友の発憤ぶりは何事だろう。
 この男は、それと聞いて、はや独断をしてしまっている。いま叫ばれた川流れの本尊こそは余人ではない、わが道庵先生に相違ない、と早くも独断してしまっている。だから、本能的に憤起して、超人間的に、岩と岩との間を飛びはじめたのです。
「だから言わねえこっちゃねえ」
 自分がちょっと目をはなせば、もうこのザマだ、世話の焼けた話ったら……酔っぱらって、とうとうころげ込みやがった、軽井沢や、浅間の、ちょろちょろ水へ転げ込んだのと違って、天下の木曾川へ転げ込んだんだ、冗談《じょうだん》じゃねえ、深いぜ、青んぶく[#「青んぶく」に傍点]だぜ水が……あの先生、泳ぎを知らねえんだろう、それに酔っぱらってると来ているから、あがきがつくめえ
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