術を用いなければならなくなりました。
今や、少なくとも、その三度目の失敗を繰返したとは、われながら歯痒《はがゆ》いことの至りだ。しかも以前の時は自分も放心していたとはいえ、道庵先生の方に放漫の罪が多い。米友の虚に乗じて、道庵が出し抜いたといえばいえる。少しの間なりとも虚を見せたのは、自分の落度といえば落度だが、その虚を覘《ねら》って、友達――ではない、切っても切れぬ同行のつれを出し抜くのは、道庵先生も情が薄いといえば薄い。しかし、今度は違う、自分は今見なくてもいい熊を見て、そうして、つぶさなくてもいい暇をつぶしてしまっている。その間、先生は待っていてくれる約束になっている。つまり自分は熊胆を取って来いといわれたけれども、熊を見て来いとは言われなかったのである。それにもかかわらず、早く取って帰るべき熊胆を取って帰らずに、見なくてもいい熊をぼんやりとしてみとれてしまった。
ああ、これは申しわけがない。軽井沢や、浅間の時は、十のものなら七までは先生の出し抜きが悪いかも知れないが、今度のことは、十のものが十まで自分の落度だ。こんなに長く熊を見ているんではなかった――
米友はこの十分の責任感で、木曾の福島の駅を西に向って道庵を追いかけましたけれど、かなりのところで、その姿を見かけることができません。
「おいらの先生はどうしたんだ、みんな、おいらの先生を見なかったかい――馬に乗ったおいらの道庵先生」
こう呼びかけながら、まっしぐらに、しかしびっこ[#「びっこ」に傍点]を引いて、彼は全速力で走りましたが、誰も要領よく答えてくれる人はありません。また米友も足をとどめて、要領よくそれを聞きただす余裕もありません。彼は走りながら、叫びつづけました、
「おいらの道庵先生――馬に乗った道庵先生、下谷の長者町の十八文の道庵先生」
「もしもし」
「何だい」
「休んでござりまし、木曾お六|櫛《ぐし》買ってござりまし」
「要《い》らねえ、要らねえ」
「おみやげに桜皮のたんじゃく、墨流しのたんじゃく、お買いなさんし」
「おかみさん」
そこで米友が立止まって、これこれこういう人体《にんてい》の仁《じん》が通らなかったかということを、米友としてはかなり気を落ちつけたつもりで尋ねると、物売屋の女房が、
「ほんに、そういった御仁《ごじん》なら、たった今、西東の方へおいでなったのっし」
「西東へ?」
「まあ、この赤い櫛を一つお買いなさんし、これがのし、負けて六十四文にしてあげませず[#「あげませず」に傍点]」
「おいらは、櫛は買いてえと思わねえんだ、おいらが櫛を買ったって、始末に困らあな」
「まあ、そうおっしゃらず。こちらにも三ツ櫛のいいのがござんさあ」
「人柄を見て物を言いな、櫛を買うような人間には出来ていねえんだぜ」
「それでは、おかみさんへのおみやげに」
「ばかにしてやがら、おかみさん面《づら》があるか」
かくて米友は、また一散《いっさん》に走りました。
なんとしても、水が上へ流れないように、上方《かみがた》へ上る約束で来た道庵先生が、東へ向くはずがないから米友は、その点は安心して、木曾街道の要所を、わき目もふらずに走りました。
走りながら様子を聞いてみると、それは往々、程遠からぬ時間の間に、尋ねるとおりの人が、この街道を通った形跡は確かにある。
やや、安心した米友は、ついに二里半を飛んで、上松の駅まで来てしまいました。
そうして、碓氷峠《うすいとうげ》の上の駅でしたように、その駅のほとんど一軒一軒について、たずねてみると、あるところでは相手にされないが、あるところではかなり要領を得ることになる。
結局、とある酒店で、持参の瓢箪《ひょうたん》の中へいっぱい清酒を詰めさせた客人があるという手がかりがあって、それから問いただしてみると、それは多分|件《くだん》の一瓢を携えて寝覚《ねざめ》の床《とこ》へおいでになったのだろうとのことです。
「寝覚の床というのは?」
米友から問い返されて、かえって、尋ねられたものが驚きました。
木曾を歩きながら、木曾第一の眺望、寝覚の床が頭の中に無いという旅人も珍しい。この男は、何のために木曾道中をしているのだかわからないと驚きました。
事実、米友は、風景をながめんがために旅行をしているのではないとはいいながら、沿道の風景を無視していることがかなり甚《はなは》だしい。道庵は道庵だけに、軽井沢の夕暮の情調を味わうことも知っていれば、浅間の湯治場の祭礼気分に、有頂天《うちょうてん》になるほどの風流気もあるし、木曾路へ入ってからでも、夜間、暇を見ては読書もするし、かなり四角な字を並べたり、色紙《しきし》、短冊《たんざく》を染めてみたりしているのですが、米友にはそれがない。
現に、この福島から、上松に至るの間には木曾
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