っている間に、その家の軒に檻《おり》があって、その中に大きな熊のいるのを認めて、思わずそれに近寄ると、ついつい見とれてしまいました。
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「木曾路には、獣類の皮をあきなふ店多し、別して贄川《にへかは》より本山《もとやま》までの間多く、また往来の人に、熊胆を売らんとて勧むる者多し、油断すべからず」
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と木曾名所図絵にも書いてある。その獣皮屋《けがわや》が、生きた大熊を、店の前の檻に入れて看板に出している。
 それを米友は見とれているのであります。

         二十八

 米友は、貪《むさぼ》るような目を据えて、熊を見つめておりました。
 その熱心な注目ぶり。
 はじめて、この熊という動物を見たものか、そうでなければ、この動物について、何か特殊の興味を持っていないことには、こうも熱心に見つめておられるはずはないのであります。
 しかし、米友が、特に動物学の研究をしているということも聞きません。
 Catnivores のうちの Genus Ursus としての熊。
 インド産のスロース・ベーアというものと、西蔵《チベット》に棲《す》む特種を除いたほかは、世界中ほとんど共通した形体と、内容を持ったこの動物。
 四十二枚を数えられているその歯。
 北極熊だけが白い。その白さも、他動物の白色は季節によって変るが、北極熊の白色は変らない。その北極熊の大きなのになると、六百ポンドから七百ポンドの目方がある。七十貫目から八十貫目の間。
 最も普通なる Brown Bear(褐色熊)。
 シベリア熊とか、ヒマラヤの雪熊とかいうのもそれだ。
 ヨーロッパ種のそれと比べると、ヒマラヤ属のは少し小さい。
 ヨーロッパ種の褐色熊は、大体において、鼻の先から尾の根までが八フィートに達するとすれば、ヒマラヤ種のは、五フィート或いは五フィート半、最も大きなので七フィートに過ぎない。
 尾の長さは、いずれも二インチか三インチぐらいのものだ。
 北の方のカムチャツカにも、またこの種類が棲《す》んでいて、※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]《さけ》を取るのに妙を得ている。
 この種類の熊は比較的に非社会的の傾向を持っているにかかわらず、人に慣れて芸事をよくする。旅興行の役者や、見世物師は、これにダンスその他を仕込んで人に見せる。
 最も強猛なのは、西北アメリカ、アラスカから、ロッキー山脈を通じてメキシコに至るその辺に散布する Grizzly Bear(半白熊)。
 そのなかには千八百[#「千八百」は底本では「千百」]ポンド(二百十六貫)の体量を持ったやつがいる。
 掌《たなごころ》の一撃で、野牛や、野鹿を粉砕する。
 アメリカ黒熊《ブラックベーア》というのは、よくありふれたヨーロッパの Brown Bear よりは少し小さい。
 ヒマラヤ黒熊というのは、特徴の一つとして胸に月毛がある。
 さて、日本の熊は、このヒマラヤ黒熊の地方種といってよかろう。
 そうして、この日本産の熊も、国々によって多少の相違がある。現にこの檻の中に捕われている熊は……
 死んだお君から言えば、米友は確かに学者であったには相違ないが、こんなようなふうにまで科学的に見ているわけでもないでしょう。
 そうかといって、眼は熊に向いつつも、心はよそに、二大政党の勢力が伯仲《はくちゅう》の間《かん》にあって、将来の政局がどう安定するか、というようなことをも考えている男ではありません。
 一万円の自動車を飛ばし、金にあかして多数の犬を弄《もてあそ》んだという金持の文士が、民衆を標榜《ひょうぼう》して打って出でると、それに五千の投票が集まるという、甘辛せんべいみたような帝都の人気を、苦笑しているわけでもないのであります。
 宇治山田の米友が、こうも一心に熊に打込んでみとれているというのは、この熊を見て、はしなくも、ムク犬のことを思い出したからであります。
 米友は、熊を見ているうちに、ムクのことを思い出して、たまらなくなりました。
 ムクはいい犬だったなあ――ムクは可愛ゆい奴だなあ――ムクは……
 やや暫くした瞬間に、ハッと気がついて、例の責任感がこみ上げて来ると矢も楯《たて》も堪らず、土産物屋《みやげものや》の熊胆《くまのい》をかっぱらうようにさらって、走り出しました。
 そこで宇治山田の米友が、木曾の福島の町をまっしぐらに飛び出しました。
 碓氷峠《うすいとうげ》の時も、うっかり風車にもたれて東の国を顧望していた時に、道庵先生を見失い、ついに軽井沢の大活劇を演じて、辛《かろ》うじて、道庵先生の命を九毛の危《あや》うきに救い出しました。また松本の浅間の湯では、祭礼の群集の中へ先生を埋没させてしまって、それを救うのに、天狗夜遊《てんぐやゆう》の秘
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