うだい、堅気のところならよかろうじゃねえか」
「堅いところがございましたら、お世話を願いたいものでございます」
こんな話をしながら辻のところへ来ると、家並《やなみ》の角に一つの辻ビラがありました。
道庵は、そこに馬を止めて、まぶしそうに辻ビラを打ちながめて、
「ははあ」
とうなずきました。
上に「大岡政談」と筆太《ふでぶと》に書いて、下に何かゴテゴテと書きつらねてあります。
よく見ると、「大岡政談」の「岡」という字が、変則に書いてあるものだから「衆」という字に見えたがって、一歩読みそこなうと「大衆政談」になります。
もし、これが昭和の二、三年頃であったら、道庵先生も直ぐにそれを「大衆政談」と読んで、ははあ、これは普通選挙だなと呑込んでしまったかも知れないが、大衆というような文字は、そのころ流行《はや》らなかったものですから、苦もなく「大岡政談」と読んだものの、文字の書き方に気をつけねばならぬものだと考えました。
しかし、これが、つい間違えて「岡」という字を「衆」という字に似せてしまったのなら格別、わざと企らんで「衆」という字に焼き直したのなら、卑しむべきことだとも考えました。
いったい、焼直しということは、よくないことである。直し[#「直し」に傍点]や、焼酎《しょうちゅう》よりも、生一本がいいということは、道庵も日頃から感じておりましたことです。
しかし、焼直しをしたがったり、まがい物をこしらえたりして、あぶく銭を儲《もう》けたがるやから[#「やから」に傍点]が、いつの世にも絶えないのは情けないと思います。
人の積み蓄えた金銀財宝を盗めば、コソコソ泥棒でも罪になるが、人の苦心してこしらえた著作や、狂言を、いいかげんに盗み散らして、こしらえて、それで罪にならないものか知ら、これは問題だと思いました。何の道に限らず、功を成すには自ら刻苦して、これを成し遂ぐるところに妙味がある。骨の折れない仕事をして、儲けよう、儲けさせよう、という時代精神を憎むの心を起しました。
「字というものは、一字の違いでも大変なことをしでかすことがある。おれの仲間の藪《やぶ》のところへ、なまじ物識《ものし》りの奴が病気上りに、先生『鮭《ふぐ》』を食べてよろしうございますか、と手紙で問い合わせて来たものだ。ね、『鮭』――魚|扁《へん》に圭《けい》という字を書くんだよ、これはフグという字なんだよ。ところが藪の先生、それを『※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]《しゃけ》』と読んでしまったんだ、魚扁に生、それはサケともいうし、シャケともいう字なんだ。そこでよろしいとも、シャケならいくら食べても差支えないと答えたものだから、先方はフグを食ってしまった。病気上りにフグを食ったからたまらない、忽《たちま》ち往生してしまったのだ。鮭《ふぐ》と、※[#「魚+生」、第3水準1−94−39]《しゃけ》では、忙しい時は誰だって間違えらあな……なるべく物の名というものは、区別のつくように書かねえと、体《たい》が現われねえのみならず、一字の違いで、この通り命に関《かかわ》ることもあらあな、ゴマかしはいけねえ」
道庵は懇々《こんこん》と説きさとすようなことを言って、わけもわからずに源助を感心させ、
「ところで、男というものは、一片の鉄を鍛《きた》えるにしてからが、人と違った働きをしてみせなけりゃあ、生甲斐《いきがい》が無《ね》えのだ。真似《まね》をして、ゴマかしをして、一生を終るくらいなら、死んじまった方がいい。わしは今、この焼直し屋を医者の方で調べているから、調べ上げたら、お前さんにも見せて上げる。それはそうと、友様はどうした、もうやって来そうなものだな」
こうして心待ちに待っているが、どうしたものか、あの気の短い男が、容易に姿を見せないのが不思議です。
米友が容易に、姿を見せないことによって、道庵の心にようやく謀叛《むほん》が起りました。
というのは、日頃、あまり米友の責任観念が強過ぎるものだから、せっかくの道中が監視附きのようになって、思うように脱線のできないことが、道庵にとって、一方《ひとかた》ならぬ苦痛といえば苦痛であります。
そこで、この機会にひとつ、彼を出し抜いて、思う存分にわがままを働いてみたいものだという謀叛気が、道庵の心の中で起りました。これは道庵として無理のないところがあるかも知れません。
「まあ、いいや、どのみち、馬が西へ向けば尾が東、ということになるんだから、落ちつくところは上方《かみがた》よ、かまわず馬をやってくんな、後は後でどうにかなりまさあ」
といって、道庵はそのまま馬を進めさせてしまいました。
一方、特別注文の熊胆《くまのい》を取りに走《は》せ戻った宇治山田の米友は、店へ寄って、その使命のほどを伝えて、薬物の取出しを待
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