三両でよかった、三両でお売りなすったから、まあよかったようなものさ、これを、百両百貫とでもいってごろうじろ、道庵だって考えらあな」
と言って道庵が、むやみに安心してしまったが、その男にはのみこめないようです。
三両でよかった、三両で人の娘を売ったからまあよかった……という言い分は、ずいぶんぶしつけ極まる言い分であります。さきには人道問題だとまで絶叫したのを、相場が三両だからそれでよかったという言い分は、どうしても聞えない言い分であります。そこで右の男も、敬遠に加うるに、幾分か憤懣《ふんまん》の色を見せて言いました、
「御苦労さまでございます、どちらのお方様か存じませぬが、どうかお休み下さいまし、わたくしももうあきらめて、休ませていただきますでござりますから。おやかましうございました」
こう言って、婉曲《えんきょく》に道庵の退却を求めるようになりました。道庵はそれを耳にもかけず、突然また大きな声を上げて、
「友様や、友さんや」
「おーい」
一議に及ばず、米友が返事をしました。実はさいぜんからの事のいきさつを、米友は蒲団《ふとん》の上に起き直って、委細うかがい知っているはずでありましたが、相手が相手だけに、こんどは自分の出る幕でないと神妙にひかえていたのを、呼び立てられたものだから、一議におよばず返事をして、立ってやって来ました。
「友さん、御苦労だが、その紙入をここへちょっと貸しておくれ、そうしてお前さんにもこの場へ立会ってもらいたいのだ」
「これかい」
米友が持って来た枕許《まくらもと》の紙入を取り出して、ちょっとおまじないの真似《まね》をしてから、若干《いくらか》を紙に包んで、件《くだん》の男の前へ突きつけて、道庵が言いました、
「百両百貫とでもいわれた日にゃ道庵だって考えるが、三両と聞いて安心を致した、さあ、ここに三両の金がある……時と場合によればまだ二両ぐらいはどうにでもなる、これでその娘を受け戻すさ、そうすりゃお前、娘もつれて帰れるし、馬も引いて帰れるだろう、が馬があれば一家が養えるが、娘がいたって邪魔になるというわけじゃあるまい、だから、こうなると三両が大したものだ、さあ、遠慮なく取っときな」
そこで今度は、右の男が、眼を円くしてしまいました。
この人は何だろうと思いましたが、まんざら木の葉を包んで出したとも見えない。呆《あき》れ返り、受取り兼ねていると、道庵は、
「おれは十八文だが、時と場合によれば三両や五両の金には驚かねえ、遠慮なく取っときな」
道庵はここで大いに男を見せたつもりだが、見せられた方は、いよいよ度を失ってしまいました。
この偶然の因縁《いんねん》から、道庵先生は、福島の宿駅から、少なくとも美濃の国まで通し馬に乗ることの便宜を、報恩的に与えられることになりました。
翌日、大得意で道庵先生が、馬に乗って福島の宿駅を立ち出でることしばし、
「あ、忘れた」
と馬上で叫び出し、
「あの獣皮屋《けがわや》へ、熊胆《くまのい》のいいところを一くくりあつらえて、昨夜《ゆうべ》のうちに代金まで渡しておいたが、出がけに忘れてしまった、済まねえが友さん、ひとつ取って来てくれねえか」
「よし来た」
宇治山田の米友は心得て、熊胆を受取りに、宿の方へ取って返しました。
そのあとを道庵は、悠々《ゆうゆう》と馬を進ませて、臨時に馬子をつとめているかの百姓と語ります、
「ねえ源助様」
美濃の百姓の名は、これによって見ると、多分源助というのでしょう。
「はい、はい」
「泣く子と地頭《じとう》には勝たれねえってことを知っているかね」
「知っておりますよ」
「ところで、お前さんのそのお茶屋へ売ったという娘さんは、今年いくつにおなりだえ」
「十七になりましたでございます」
「十七……いいところだね、十七姫御が旅に立つってね」
「はい、はい」
「きりょう[#「きりょう」に傍点]は、どうだね」
「左様でございますね、瓜の蔓《つる》に茄子《なす》はならねえのでございますから」
「だって、お前、鳶《とんび》が鷹《たか》を生むということもあるぜ」
「へえ、まあ、不具者《かたわ》でないのが見《め》っけものでございますよ」
「鬼も十七、山茶も出ばなといって、不具《かたわ》でさえなけりゃあ、娘ざかりだから、乙なところがあるにきまってらあな」
「どういうものですか」
「どうだい、その娘さんに、これから婿《むこ》を取らせなさるのかい、それとも嫁《よめ》にやってもいいのかい」
「そりゃ、まだ兄弟が幾人もございますから、相当なところがあれば、片附けたいのでございますよ」
「そうか、ひとつ世話をして上げようかね」
「お頼み申します」
「江戸じゃいけねえのかい」
「お江戸なんぞへ、山出しのあれが納まるものじゃございません」
「それじゃ奉公はど
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