なすったって……なるほど、剣を売って犢《とく》を買うということもあるにはあるが」
両手を胸に組んで考え込むと、しおれ[#「しおれ」に傍点]きったその男が、
「ことし十七になる娘を、上松《あげまつ》の茶屋へ奉公に出しまして、それで、この福島で馬を買いましたが、奉公とはいえ、十七になる娘に身売りをさせたのでござります、馬は連れて国へ帰れますけれど、娘は連れて戻ることができませんでございます」
そこで、また男がしくしくと泣き出しました。
「なるほど」
道庵も仔細らしく考え込んでいると、男が、
「馬を買わなければ、家がたちゆきませんし、娘を売らなければ、馬が買えないのでございます、その娘だって、あなた、くどいようでございますが、ただの奉公ではございません、勤め奉公でございますから、泊り泊りの客人にいいようにされ、しまいには悪い病気にかかって死ぬか、そうでなくても、年《ねん》が明けていつ帰れることやらと思いますと、それがかわいそうになりまして、つい、どうも、お耳ざわりになって、相済みませんことでございます」
「なるほど」
道庵も少し真顔《まがお》に考え込んでいたが、やがて声の調子を一本上げて、
「なるほど、それは人情だ、娘を売って馬を買う、娘を売らなければ馬が買えない、馬を買わなければ一家が養えない、一家を養おうとすれば馬を買わなければならん、馬を買うには娘を売らなければならない、娘を売るのはつまり、娘を殺すというようなわけ合いになるんだから、つまり動物のために、人間を犠牲にするという理窟になるんだな。ところでその動物がまた、お前さんの一家を救うということになるんだから、動物のために人間が救われるという理窟も、立てれば立つ。しかし、なお考えてみると、人間を立てれば動物が立たず、動物を立てれば人間が立たない。さあ大変、忠ならんとすれば孝ならず、ここは、一番、道庵も考えどころだぞ」
といって、いよいよかたく腕組みをしてしまいました。しおれ[#「しおれ」に傍点]きった男は、それでもいっこう浮き立たず、
「せっかくの御心配を下さいましても、どうももう仕方がございません、娘は売ってしまったもの、馬は買ってしまったものでございますからなあ」
「そこだよ、そう物を早くあきらめてしまっては何にもならねえ、そこんところを、もう一応考え直してみねえことにゃ、せっかく道庵が乗出した甲斐がねえというもんだ」
「御親切に有難うございますが……もう、わたくしあきらめてしまいました」
「待っていなさい、もう一応考え直してみるてえと、娘を売って馬を買う、娘を売らなきゃあ馬が買えねえ、馬を買わなけりゃ一家が養えねえ、一家を救おうとするには馬を買わなきゃあならねえ、馬を買うには娘を売らなきゃならねえ、娘を売るてえと……ああ面倒臭い、どうどうめぐりをしているようなもんだ、何とか、いい工夫《くふう》は無《ね》えものかなあ。どっちみち、動物を買わんがために、人間を売るというのは人道問題だ、利害関係は別として、こりゃ人道問題だぜ。ソラ、医は仁術なりだろう、苟《いやし》くも仁術を看板として、人道問題を耳にしながら、それを聞き流していられると思うか、しっかりしろ」
と再び叫びました。その時になって、さすがに、しおれきっていた馬買いの男も、この先生は少しどうかしているのではないか、と思いましたから、敬遠の態度を取った方がいいではないか、と気がついた時分に、道庵が、
「そうだ、いったい、お前さんは娘をいくらでお売りなすった、そうして馬をいくらでお買いなすったか、それをためしに聞いてみようではないか」
そこで男が答える、
「はい、お恥かしい話でございますが、娘を三両で売りまして、馬を四両で買いましたのでございます」
「なあーんのこった」
そこで道庵が、あいた口がふさがらずに、呆《あき》れ返ってしまいました。
「申しわけがございません」
道庵に対して申しわけがないようにあやまるのを、道庵が、いよいようんざりした声で、
「お前さん、そんならそれと、疾《とっ》くに打明けて言いなさればいいにさ」
「つまらないことをお話し申し上げて、よけいな御心配をかけてあいすみませんことでございました」
「よけいな御心配じゃねえさ、三両だっていうじゃないか、三両なら三両のように、はな[#「はな」に傍点]からそうおっしゃって下されば、道庵だって、これほど心配はしやあしねえのさ」
「ほんとうに相済みません」
「済むも、済まないもありゃしないよ、第一お前、娘を三両で売って、馬を四両で買うなんて、馬の方が一両高いじゃねえか、そんな値段てあるもんじゃねえ」
「それでも一両は、どうやら掻《か》きあつめて、国から持って参ったもんでございますから……それでどうやら」
「それを言ってるんじゃない。まあまあなんにしても
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