き上って、帯を締め直して、そうして、徐々《そろそろ》と足を運んで、やおら、その隣室の襖《ふすま》へ手をかけてみると、存外、具合よくスラリとあきました。
「今晩は」
といって、そのスラリとあいた古い襖の間から、ぬっと面《かお》を突き出して見ると、そこですすり[#「すすり」に傍点]泣いていたのは、極めてあたりまえの、百姓|体《てい》の五十男がただ一人、煙草盆を前に置いて、うす暗い行燈《あんどん》の下で、しきりに涙を流しているだけのものであります。
「いや、今晩は、どうも」
 先方は、突然の訪問を受けてかなり狼狽《ろうばい》した体《てい》で、いずまいを直して、道庵先生の方に向き直り、極めてていねいに挨拶をしましたのを、道庵は立って、ぬっと面を突き出したままで、
「お前さん、さいぜんから聞いていれば、しきりに泣いておいでなさるようだが、何が悲しくって、そんなに泣いておいでなさるんだね」
「はい、まことにお耳ざわりになって、申しわけがございませんでございます」
と、その男は道庵の方に向いて、恐る恐るおわびのお辞儀をしますと、
「お前さん、いい年をして、泣くほどの切ないことがあるなら、まあ物はためしだから、わしに打明けて話してごらんなさい、わしも長者町の道庵だ」
といって、中へ乗込んでしまいました。
「恐れ入りました」
 中なる男は、かなり迷惑しているらしい。長者町の道庵だと名乗ったところで、長者町界隈でこそ押したり、押されたりするが、木曾の山の中へ来てそれが通ろうはずがないのを、道庵はいい気になって、早くも、その男の向う前へ坐り込んでしまい、
「見たところ、お前さんも男として、そうしてしくしく泣いていなさるというのは、よくよくのことだろうとお察し申す、まあ、話してみな……悪いようにはしないから」
 道庵は持合せのきせるを取って、すっかり長兵衛を気取ってしまいました。
「それではお恥かしい話でございますが、お言葉に甘えまして、身の上話を一通りお聞き下さいまし」
「なるほど」
「わたくしは美濃の国の落合というところの百姓でございますが、この福島へ馬を買いに参りました」
「なるほど」
「望みの通り、この福島で、三歳の毛附駒《けつけごま》のこれならというのを買うには買い求めましたんでございますが……」
「馬を買いに来て、望み通りの馬が買えたんなら、なにも不足はなかろうじゃございませんか、泣くがものはなかろうじゃございませんか」
と道庵がたしなめ面《がお》にいうと、
「ところが、あなた、お聞き下さいまし、望み通りの馬を買うには買いましたが、ただで買ったわけじゃございません」
「そりゃきまってらあな、物を買おうというに、ただで売る奴があるものか」
「ところがお聞き下さいまし、そのお金がただのお金じゃございません、血の出るようなお金で、馬を買うには買ったのでございます」
「そりゃお前さん、誰だって、そう有り余る金を持っているときまったわけじゃなし、まして失礼ながら、お前さんのような水呑……じゃねえ、水の出端《でばな》の若い人と違って、相当の年配になれば誰だって貧乏すらあな、その貧乏したところで馬を買って、道楽で引いて歩くわけじゃあるまい――愚老の若い時なんぞは、心得の悪い奴があって、飛んでもねえところから馬をひっぱって来るのを見得《みえ》にした奴があったもので、今時の若いのには、そんなことはありませんがね……そういったたち[#「たち」に傍点]の馬とも違って、お前さんなんぞは、その馬を買って、稼《かせ》ぎに使おうというんだろう、その日かせぎのお駄賃取りなんだろう、だから、その馬が物を食う代りに銭を取らあな、いくらか銭を取って、家の暮しの足しになるだろう、だからお前、今ここで血の出るような金を出して馬を買い込んだところで、それが忽《たちま》ち利に利をうむという勘定になるんだろう、そうがっかりすることはなかろうじゃないか、気を確かに持って、前途に望みをかけなくっちゃいけねえ、いやに悲観しなさんなよ」
と道庵が、慰めはげますような言葉で、親切にいい聞かせたつもりでしょう。しかし、よく聞いていると、この親切な言葉のうちにも、論理の不透明なところが無いとはいえない。第一、相当の年配になれば誰だって貧乏すらあな……という一句の如きは、かなりの独断であるけれど、その男はいちいち頭を下げて、
「御尤《ごもっと》もでございます、おっしゃる通り、私は道楽で馬を引きに参ったわけではございません、貧乏暮しのうちに馬一頭が、杖《つえ》とも、柱とも、でございます。どうしても、馬が無ければ立って行かない一家なんでございますから、それがために……お恥かしい話ですが、娘を売って馬を買いましたんでございます」
 道庵は仰山に驚いて、眼を円くして、
「何とお言いなさる、娘を売って馬をお買い
前へ 次へ
全94ページ中70ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング