は窮屈でたまらない。
 そこで、ただいま、神妙に本を読み出したのなんぞも、こうして米友を安心させておき、油断を見すますの軍法かも知れません。さればこそ、寝入りながら、「つまらねえなあ」と嘆息したのも、この監視つきに対してのやる瀬なき鬱憤《うっぷん》を漏らしたものと見れば、見られないこともないのです。
 道庵が眠りについたと見たから、米友も枕につきました。
 米友は枕につくと早くも、いびきの音ですけれど、熱に浮かされた道庵は、容易に眠れないと見えて、時々、狸《たぬき》のような眼を開いては、次の間の様子に耳を立てるのは、米友の寝息をうかがうもののようにも見えます。
 道庵主従がこうして、ともかくも静かに床についている向うの一間では、人の気も知らないで、飲めよ、歌えと、騒いでいる大一座がある。
 悪ふざけの国者《くにもの》の声と、拗音《ようおん》にして、上声《じょうしょう》の多い土地なまりとが、四方《あたり》かまわず、ふざけ噪《さわ》いでいるのが、いたく道庵の感触にさわっているらしい。
 しかし、それはかなり間を隔てたところだから、辛抱をすればできるし、夜《よ》っぴて騒いでいるわけでもあるまいから、そのうちには鎮《しず》まるだろうと道庵が辛抱していると、道庵の寝ている外の廊下を息せき切って、酒に酔っているらしい一人の女が、
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木曾のナア、かけはしゃナアンアエ
からみつく、蔦《つた》がナアンアエ
わしにゃ蔦さえからみつかない、ナアンアエヨウ
どっこい、どうしん
ころものほうがん
じょでこい、じょでこい
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と肉感的な声で歌いながら、足拍子を踏んで通るものだから、道庵が、
「これこれ、静かにしろ」
と大きな声でしかりつけました。

         二十七

 道庵が、寝ながら頭の寒いことを感じ出したのは、今晩に始まったことではなく、つまらない一時の感激から、額をそり上げてしまったことを、今も悔《く》いているのです。というのは、松本の芝居小屋で、川中島の百姓たちが大いに気焔を上げたのを見て、急に武者修行をやめて、百姓になる気になり、茨木屋《いばらきや》の佐倉宗五郎気取りで、すっかり百姓風に納まったはいいが、久しく総髪でいた頭を、おしげもなく剃《そ》り上げてみると、そこから風がしみ込んでたまらないのです。ことに木曾街道へ来てから、木曾の山風が、夜寒の枕を動かそうという時なんぞは、つまらない道楽をしたものだと頭へ風呂敷をかぶせながら、眠りにつくような有様なのであります。
 今も、その官能的な鄙歌《ひなうた》を叱りつけてから、ゾッとその寒さを心頭から感じて、あわてて枕もとの風呂敷を取って、その頭からかぶせてしまい、そうして道庵並みに軽い旅情というようなものに動かされて、こし方《かた》、行く末というようなものが上《うわ》っ面《つら》へのぼって来たところであります。
 前例によって、松本を出でて以来の道庵主従の旅程を挙げてみると、
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松本から村井へ一里二十町
村井から郷原《ごうばら》へ一里十二町
郷原から洗馬《せば》へ一里二十四町
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 ここで塩尻からの本道と合し、
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洗馬から本山《もとやま》まで三十町
本山から贄川《にえかわ》まで二里
贄川から藪原《やぶはら》まで一里十三町
藪原から宮《みや》ノ越《こし》まで一里三十町
宮ノ越から福島まで一里二十八町
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という順序で泊りを重ね、ようやくここ木曾の中心地、福島の駅路についたというわけです。
 そこで、大体そんなような気分で、寝もやらず、さめもやらずに浮かされていると、ふすまを隔てた一方の室にあたって、気になるものがありました。
 縁起でもない、どうもさいぜんから、誰かこの隣室にそっと送り込まれて来てはいるようだが、この際、しきりにしゃくり上げて泣いているようであります。
 最初は道庵も、あまり気にしませんでしたが、そのしゃくり上げて泣く声が、ようやく耳にさわって来ると、先方はついには声を挙げて泣き出さぬばかりになっては、それを我慢して、またしゃくり上げていることが、かなり長い時間にわたっているものですから、道庵先生が、少しくうるさいと感じました。
 何だい、何を泣いてやがるんだ。その、しゃくり上げっぷりによると女じゃあない、男に相違ない。相当の年配の男のくせに、めそめそと、人の隣室へ来て、夜中に、泣いて聞かせる意気地無し――という気になったものですから、少しいって聞かせてやろう、という勢いになりました。
 ここが、道庵先生のお節介なところで、癪《しゃく》にさわったら寝ていて、あてこすってやってもよし、怒鳴りつけてやってもかまわないところですが、この先生は、すっくと起
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