下げ終わり]
ここまで朗々と誦《ず》し来って、また前章に舞い戻ったものと覚しく、
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「中古ニ隠士徳本ナル者アリ、甲斐ノ人也。常ニ峻攻ノ薬ヲ駆使シテ未ダ嘗《かつ》テ人ヲ誤ラズ。頭《かうべ》ニ一嚢ヲ掛ケテ諸州ヲ周流シ、病者ニ応ジ薬ヲ売リ償《つぐなひ》ヲ取ルコト毎貼十八銭――」
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この時に道庵先生が、また案《つくえ》を打って、けたたましく叫びました、
「ここだ、こん畜生だ!」
そこで何か後ろめたいことでもあるように、道庵先生が急に巻を閉じてしまい、すっくと立ち上って、羽織をぬいで投げ捨て、帯を解いて抛《ほう》り出し、めちゃくちゃにねまきに着かえると、夜具の中へもぐり込んで、
「つまらねえなあ」
と嘆息しました。
道庵先生がこうして朗読をつづけている間、次の間に控えたのが宇治山田の米友です。
例の杖槍《つえやり》を壁の一方に立てかけて、がっそう頭に、めくら縞《じま》の袷《あわせ》一枚で、あぐらをかき、その指をあごの下にあてがって、とぐろを巻いたような形で、眼をクルクルと廻しながら、隣室の朗読を尤《もっと》もらしく聞いていたが、それも終ったと見込みがついた上に、先生は帯を解いて寝床にもぐり込んだらしい形勢でしたから、「つまらねえなあ」と嘆息した時分に、首をのばして、
「先生」
唐紙越しに言葉をかけました。
「グウ、グウ」
という返事です。
「先生」
「グウ、グウ」
相変らずふざけきったもので、口いびきで先生が答えるのを、米友は腹も立てず、
「先生、もう寝なすったかい」
「寝たよ」
「何か御用はないかね、なけりゃ、おいらも寝るよ」
「ああ、お前もお休み」
「どっこいしょ」
主人に先立って寝ず、という米友の神妙な忠勤ぶりで、道庵が寝床に納まったと見届けたから、そこで米友も蒲団《ふとん》をあけて、身を運ばせながら、
「先生」
「何だい」
「お前、夜中《やちゅう》に這《は》い出しちゃいけねえよ」
と、何の意味か米友が道庵に向って駄目を押すと、道庵がしゃらけきって、
「心配するなよ」
と答えました。
これは米友としても、変な念の押し方で、道庵としても歯切れの悪い返答ぶりでありました。何となれば、夜中に這い出そうとも、這い出すまいとも、赤ん坊じゃあるまいし、よけいな世話を焼いたもので、それをまた道庵ともあるべき理窟屋が、文句なく受取ったのみならず、幾分、良心に疚《やま》しいところのあるような歯切れの悪い返答ぶりが、いつもとは少しく調子が変っているのだが、誰もそれを、この場でとがめる者はありません。
米友は、一旦、寝床にもぐり込もうとしたが、また起き直って、荷物と、槍とを、念入りに一応調べて枕許《まくらもと》へ置き並べると、襖《ふすま》を隔てての道庵が、
「べらぼう様、這い出してみたところで、そう易々《やすやす》と落っこちる道庵とは、道庵が違うんだ」
と、寝言のように言いました。
米友が道庵先生に対して、特に夜中に這《は》い出しちゃあいけねえぜと、警告ようの文句を与えたのは、かなり意味深長なものが、あるといえばあるらしい。
それをいうと、道庵先生の人格に関するようなものだが、実は先生、旅へ出て、調子づいて脱線をやり過ぎることがあります。むしろ脱線が無ければ、道庵が無いといいたいくらいだから、道庵の脱線は天下御免のようなものですけれど、米友が眼に余ると見ている脱線ぶりは、自分の信じている従来の道庵の脱線ぶりとは、全く性質を異にしている脱線ぶりですから、米友が苦《にが》い面《かお》をして、警戒をはじめました。
一方、道庵の方から言えば、折角こうして、十八文をチビチビ貯めて旅へ出たことではあるし、町内でもともかくも先生扱いをされている手前上、そう無茶な発展もでき兼ねていたのが、無係累の旅へ飛び出したのですから、多少の人間味がわき出して来るのは、ぜひもないことでしょう。
泊り泊りで渋皮のむけた飯盛《めしもり》を見れば、たまには冗談《じょうだん》の一つもいってみたいのは人情でありましょう。
ところが、米友というものが、前後左右に眼もはなさず頑張っているから、たまらない。
そこで、多分、夜中に、米友の寝しずまった頃をうかがって、そっと抜け出して、戸惑いをしてみたことが、一度や二度はあるのだろうと思われます。しかし不幸にして相手が米友ですから、眠っていても畳ざわりの音で眼をさます。そうして、道庵の脱線を難なく取押えてしまう。取押えられる度毎に、道庵は手のうちの玉を取られたほどに残念がることも、一度や二度ではなかったらしいが、そこはうまくバツを合わせて、米友を言いくるめてしまっているらしい。
そうなると、米友の責任観念がいっそう強くなって、警戒ぶりがいっそう厳重を加えるものですから、道庵
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