晩は道庵先生が大声を発しております。
 もはや、夕飯も済み、これから寝に就《つ》こうとするにあたって、道庵が突然大きな声を出しはじめたものだから、最初はあたり近所の人々が驚きましたけれど、やがて、驚かなくなってしまいました。
 それというのは、無意味に大声を発したのではなく、よく聞いていると、それは急に本を読みはじめたものらしいから、宿の者も安心したのです。
 それにしても、道庵が今晩に限って、なぜ、こうして改まって本を読み出したのだか、また、こうまで改まって、道庵をして巻を措《お》くを忘れしむるほどの書物は何物であるか、それは充分にわかりませんが、道庵の眼の前には、たしかに一冊の書物が置いてあるにはあるのです。
 枕元のところに一冊の書物がひろげてあって、それを前にして道庵はキチンとかしこまって、しきりに朗々と読み立てているにはいるのですが、肝腎《かんじん》のその眼が、いっこう書巻の上には注いでいず、向うの行燈《あんどん》の、やや黄ばみかかった紙の横の方に「へへののもへじ」が書いてあって、その下から、一匹のこおろぎが油をなめに行こうとするところを、一心に見つめながら、そうして唇はしかつめらしい声で、朗々と文章を読み上げているのですから、出鱈目《でたらめ》をいって、勉強ぶりを衒《てら》っているのか、そうでなければ暗誦《あんしょう》を試みて、無聊《ぶりょう》を慰めているものとしか思われません。
 しかし、聞く人が聞けば、それは確かに言語文章を成しているのです。耳を澄まして少しくその読むところをお聞取り下さい!
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「凡百ノ技、巧《こう》ニ始マリ、拙ニ終ル、思《し》ニ出デテ不思《ふし》ニ入ル、故ニ巧思極マル時ハ則《すなは》チ神妙ナリ。神妙ナル時ハ則チ自然ナリ。自然ナルモノハ巧思ヲ以テ得ベカラズ、歳月ヲ以テ到ルベカラズ……」
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 そこで思い出したように、パッと枚数を飛ばしてから、
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「英雄、医卜《いぼく》ニ隠ル固《まこと》ニ故有リ矣。夫《そ》レ医卜《いぼく》トハ素封無キ者ノ素封也。王侯ニ任ゼズ、自如トシテ以テ意ヲ行フベシ……エヘン――」
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と咳払《せきばら》いをしてから、また急に思い出したように、五六枚はね飛ばして、一調子張り上げ、
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「身、五民ノ外ニ処シテ、或ハ貴《き》ニヨク、或ハ賤《せん》ニヨシ、上ハ王皇ニ陪シテ栄ト為サズ、下ハ乞児《きつじ》ニ伍シテ辱ト為サズ、優游シテ以テ歳ヲ卒《をは》ルベキモノ、唯我ガ技ヲ然《しか》リト為ス……エヘン」
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 ここでも、わざとしからぬ咳払いを一つして、荘重《そうちょう》に句切りをつけましたが、急に大きな声で、
「ナムカラカンノトラヤアヤア」
と叫び出しました。
 これは全く意表に出でた文句の変化であって、前段に読み来《きた》ったところのものは、たしかに医書であります。その医書のうちの会心のところ、道庵からいえばかなり手前味噌になりそうなところを二三カ所、朗々として読み上げて来たのですけれど、それは職業の手前|咎《とが》める由は無いが、ここに来って急に、「ナムカラカンノトラヤアヤア」と言い出したのは、どう考えても理窟に合わないことです。木に竹をつぐということはあるが、これは医につぐに呪《じゅ》を以てするとでもいうのでしょう。しかし、ここでは聴衆というものがないのだから、道庵自身がそれを問題にしない限り、弥次《やじ》る者も、笑う者もありませんから、いよいよ図に乗って、
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「山東洋、ヨク三承気ヲ運用ス。之《これ》ヲ傷寒論ニ対検スルニ、馳駆《ちく》範ニ差《たが》ハズ。真ニ二千年来ノ一人――」
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 二千年来ノ一人……というところにばかに調子を振込んで道庵が力《りき》み返り、
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「中古ニ隠士|徳本《とくほん》ナルモノアリ、甲斐ノ人也――」
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 そこで案《つくえ》を一つ打って、すまし返りました。
 読みながら道庵は、自分ひとりが高速度的にいい心持になって行くと見えて、盛んに、朗読だか、暗誦《あんしょう》だか、出鱒目《でたらめ》だか、遠くで聞いていてはわからない文句を並べました。
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「余|嘗《かつ》テ山東洋ニ問フテ曰ク、我、君ニ事《つか》フルコト三年、技進マズ、其ノ故如何。洋子|曰《のたまは》ク、吾子《ごし》須《すべから》ク多ク古書ヲ読ミ、古人ト言語シテ以テ胸間ノ汚穢《おえ》ヲ蕩除スベシ。余、当時|汎瀾《はんらん》トシテ之ヲ聞キ未ダソノ意ヲ得ズ、爾後十余年、海内《かいだい》ニ周遊シテ斯ノ技ヲ試ミ、初メテ栄辱悲歎ノ心、診察吐下ノ機ヲ妨グルコトヲ知ル――」
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