…」
「お相撲《すもう》さんにしても立派なもんだ。お前さん知っていなさるかどうか、この向うの檜原《ひのはら》の大岳山《おおたけざん》の麓《ふもと》に、昔おっそろしい力の強い若い衆があってね、なんでも三十人力あって、村々で人足を出し合う時には、その若いのが一人で、三十人分に通用したという話が残っていますよ。ところが、その男が、その三十人力の力が出て働けるのは、大岳山の頭が見えるところだけに限ったもので、大岳山の頭が見えなくなるところへ行くと、げっそりと力が減っちまうんだっていうことを聞きました。お前さんも三十人力はありそうだね」
「そんなにありゃしませんよ」
 物騒な犬の吠え声から、首に縄を捲かれるまでの危険千万な光景が、いい気の、秋の夜の炉辺の茶話になってしまいました。
「お前さん、生れはどこだね」
 七兵衛もこうなると、好々人《こうこうじん》の、百姓親爺のほかの何者でもありません。
「さあ、わしの生れはどこでござんすかね」
「おや、お前《めえ》さん、自分の生れどころを知らねえ……?」
 七兵衛がまた気色《けしき》ばみました。
「生れはどこだか知らねえが、赤ん坊の時からこの沢井村で育ちました」
「それじゃあ、こっちへ貰われて来たのか、それとも……」
「いや、貰われて来たんじゃねえ、拾われて来たんでございます」
「拾われて……そうするというとお前さんは棄児《すてご》かい」
「ああ、棄児なんでございます」
「おやおや、どこへすてられて、誰に拾われなすったい」
 七兵衛はのっ込[#「のっ込」に傍点]んでしまいました。
「ねえ、おじさん」
 途方もない人のいい面《かお》をした与八は、多少その面の色を曇らせながら次の如く言いました。
 つまり、自分は棄児《すてご》である。青梅街道のあるところへ、生れていくらも経たない時分に捨てられて、それを机の大先生に拾われて、その御恩で今日に至ったということを、与八は飾るところなく七兵衛に話すと、七兵衛の眼がかがやいてきました。
「なるほど、なるほど」
 幾度《いくたび》か、深いうなずきの後に、吸い取るような眼つきをして与八をうちながめ、
「なるほど……年は十九とお言いなすったな」
 七兵衛は、指を折って数えてみるふり[#「ふり」に傍点]をしました。
「たらし[#「たらし」に傍点]餅を一つおあがんなさいまし」
 そんなことに頓着なく与八は、再び、七兵衛に向って、たらし[#「たらし」に傍点]餅をすすめます。
 そこで七兵衛はお茶を飲み、たらし[#「たらし」に傍点]餅を食いながら、なにげなく、
「それでわかった、それで委細がわかりましたよ、お松さんという人が、ああして新町へお堂を建てたり、そのお堂の中に納めてあった絵馬《えま》が、こんなところへ来ていたりする因縁《いんねん》が、よくわかりましたよ。しかし、若い衆さん、わが子を捨てるほどの親を、血眼《ちまなこ》になって探し廻るような仕事はよした方がようござんすぜ、子を捨てるほどの無慈悲な親に、ロクな奴があるはずがありませんからね。よしんば探し当てて、おおお前がお父さん、おおお前がせがれか、と抱きついてみたところで、ツマらねえお芝居さ、少しほとぼりがさめてごらんなさい、子供の方がちっと、よくでもなっていて、小遣銭《こづかいせん》をねだりに来られたりするうちはまだいいが、万々が一、その親という奴がたち[#「たち」に傍点]の良くねえ奴でもあってごろうじろ、それこそ親子の名乗りなんぞしなかった方が、ドノくらい仕合せかとあとで臍《ほぞ》を噛《か》むようなことがなんぼう[#「なんぼう」に傍点]もございまさあ。生みの親にめぐり逢いてえとか、この世の名残りにせがれに一目あって死にてえとかいうのは、お芝居としちゃあ結構な愁嘆場《しゅうたんば》かも知れねえが、生《しょう》で見せられると根っから栄《は》えねえものなんだぜ……お前さんも、そこをよく心得ていなくちゃいけねえ。お松さんにもよくその事を言っておかなくちゃいけねえ。親は無くても子は育つんだからなあ、それ、世間でも生みの親より育ての親と言うだろうじゃねえか、拾って下すって、今日まで面倒を見て下すったその御恩人に対して、御恩報じをする心持でいせえすりゃ、それでいいのさ。西も東も知らねえおさな児を、かわいそうに野原の真中へ打捨《うっちゃ》って、虎狼《とらおおかみ》に食わせようなんていう不料簡な親を慕って、それにめぐり逢いてえなんて、だいそれた料簡だ、よくねえ料簡だ。お松さんにも、よくそいって置きな、この忙がしい世の中に、棄児《すてご》の親なんぞを探す暇があったら、襦袢《じゅばん》の一枚も縫っていた方がいいって……お前さんだって、そうさ、お地蔵様を信心すれば、生みの親に逢えるだろうなんて、あんまりたあいがなさ過ぎらあな。それよりは
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