したところのものを見やると、
「あ、これですか」
「何だい、そりゃ」
「こりゃ、絵馬《えま》の額ですよ」
「絵馬には違いないが、お前さん、その絵馬をどこから持っておいでなすった」
「これですか、イヤな絵馬ですよ。お茶を一つお上りなさいまし」
 与八は、お茶をついで、七兵衛の前に差出してから、改めて問題の絵馬を無雑作《むぞうさ》に取り上げて、
「こりゃ、お松さんが持って来たものなんですが、どこから持って来たか、わしは知らねえが、あんまり縁起でもねえ額だから、おっぺしょって、火の中へくべってしまおうと思っていたところです」
といって与八は、いったん自分が二つに踏み割ってしまった絵馬を、もう一ぺん細かくさいて、それを眼の前の炉の火に投げ込もうとしますから、七兵衛があわててその手を押えました。
「滅多なことをしなさんな、それでも絵馬となりゃ、納める人は丹念して納めたに違えねえ、まあお見せなさい」
 七兵衛は与八の手から、二つに裂けた絵馬を受取って、その怪我をいたわるような手つきであしらいながら、裏と表を一ぺん通りジロリと見渡してから、膝の下へ置き、
「誰がこの絵馬を持って来たんだって?」
「お松さんが持って来ました」
「お松さんが、どこから持って来たの?」
「それは知らねえ」
「ふーん」
と七兵衛は、お茶を手に取って飲みながら、首をかしげないわけにはゆきませんでした。
 七兵衛は、与八のことは知っているか、いないか知らないが、お松のこの地にいることは、充分に知っているはずである。このあたりの地理も、人情も、知って、知りぬいているはずだから、自然、この水車小屋も、机の家のものだということは心得ているに違いない。そうしてみれば、お松とはあれほどの縁故だから、そのいどころをたずねて、充分に話はわかっているはずである。
 しかし、与八は、お松の家へこの人が尋ねて来たのを見たことがないから、従って、この人と、お松とが、深い縁故になっていることなんぞは知ろうはずはないらしい。お松がここにいることを知って尋ねない七兵衛には、また七兵衛だけの遠慮があるのでしょう。お松の方でも、程遠からぬ七兵衛の実家を尋ねたということをあまり聞かないのは、尋ねても、その都度都度《つどつど》、行方《ゆくえ》が知れないからでありましょう。
「若い衆さん、お聞きなさいよ」
 お茶を飲み終った七兵衛は、悠々《ゆうゆう》として煙草をのみにかかりました。
「はい」
「お前、そのお松さんという人と懇意なら、どういうわけで、どこから、こんな絵馬を持っておいでなすったか、それを聞いてみるといい。まあ、ごらん……」
 七兵衛は今更めかしく、絵馬をとり上げて、裂けたのをピタリと一枚に食い合わせて、与八の前へ突きつける。
「人の物を盗《と》ると……十両からこうなるんだぜ、九両二分まではいいが、十両からになると、どっちみち、こうなる運命はのがれられねえんだ、間男《まおとこ》と盗人《ぬすっと》は、首の落ちる仕事だよ」
「まあ、お茶をもう一つ、おあがんなさいましよ」
と、与八が熱いお茶の二杯目を七兵衛にすすめると、
「こりゃどうも御馳走さま」
「ここにたらし[#「たらし」に傍点]餅《もち》がある、よろしかあ、おあがんなさいまし」
 与八は、傍《かたえ》のほうろくの中にあったたらし[#「たらし」に傍点]餅をとり出して、お盆の上に載せると、
「どうも済みませんねえ」
 七兵衛は与八のもてなしぶりを、ようやく不思議な色でながめました。
 どうも少し変っている男だと見たのでしょう。第一、もう疾《と》うに許されている首の縄が、まだ外《はず》されていないのもこの場合、七兵衛としておかしいくらいに見えました。
 つまり、最初のうちこそ、縄を外してくれと要求しながら、その要求通りに縄を投げ出されてみると、それですべてが許されたものと心得て、それからは火をくべることだの、お茶をいれることだの、たらし[#「たらし」に傍点]餅をすすめることだのにとりまぎれてしまって、首の縄を全く忘れ去ってしまったものらしい。
 途方もなく人のいい男だ――と七兵衛は、その首の縄を見ると、そぞろに自分ながらおかしさがこみ上げて来るもののようです。そこで、
「若い衆さん、その縄を取っちゃあどうだい、その首の縄を」
 自分からかけておいた縄を、こう言って、先方の自決を促すような気持にまでなりました。
「あ、そうだね」
 そこで、与八は首の縄へ手をかけてグイと引張ると、縄は素直に外《はず》れる。その素直に外れた縄を一方に置き、また三杯目の茶を注いで七兵衛にすすめました。
「若い衆さん、お前さん、幾つにおなりなさる」
「わしかね、わしゃ十九でござんすよ」
「いいかっぷく[#「かっぷく」に傍点]だね」
「ええ……」
「力があるだろうなあ」
「ええ…
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