に吠えられる奴が、みんな悪い奴たあ、いえねえかも知れねえが、ムクに吠えられる奴は悪人だ」
「どうして」
「ムクという犬は、いい人に向っては、決して吠えねえ犬なんですから……」
「いよいよ冗談ものだ、人間でせえ、人物の見定めというものは容易につかねえ、まして犬に、人間の賢愚、不肖がわかってたまるものか」
「ところがムクには、それがわかるから不思議じゃありませんか――もし、お前さんが、ムクに吠えられて、ムクに追われたとしたら、お前さんは、たしかに悪いことをして、そうしてここへ追いつめられておいでなすった人に違えねえ……」
 与八がキッパリと言いきったので、七兵衛が、思わず眼をみはって与八の面《かお》を見ました。
 与八の言葉を聞いた七兵衛は、非常に驚かされてしまいました。
 この若い男は、少し足りない男のように思われるが、その言い出すことは、人の腸《はらわた》を読んでいるようだ。
 いや、この男が読んでいるならとにかく、その何とかいう犬が、こっちの裏も表も読みきっていて、善悪正邪も、賢愚不肖も、いちいち鑑定して置いて、吠えにかかるのだというのが癪《しゃく》じゃないか。
 どこまでも、世渡りの裏を行って、生馬《いきうま》の眼を抜くという人間共のかすりを取って、なにくわぬ面《かお》で今日まで生きていられた自分というものが、今晩はここで、人並足らずの間抜けのような若い男と、畜生の一つのために腸《はらわた》まで見透かされているというのも、痛いような、痒《かゆ》いような、くすぐったいような、わけのわからぬ訳合《わけあ》いのものだ。
 そこで七兵衛は、空しく、
「なるほど」
と頷《うなず》いて、与八の面《かお》をながめたっきりです。
「この縄を取っておくんなさい」
と与八が言いました。放心したもののような、緩《ゆる》めきってはいたが、さいぜんの縄は、やはり与八の首に巻きついているには、巻きついていたのです。
「なるほど」
と言ったが七兵衛は、要求通り、その縄を外《はず》してやろうでもなし、それを強く締めようでもなし。
「ねえ、縄を取っちまっておくんなさいよ」
「ま、待ってくれ」
 七兵衛は耳を澄まして、何か物の気配《けはい》をうかがおうとしているのは、つまり犬が怖いのでしょう。たった今吠えられたという犬が、自分のあとを追いかけて来て、或いはその辺の戸際に待伏せでもしてはいないか。一応その気配をうかがった上で、身の振り方をきめようとの要心と見える。
 だが、与八としても、気が利《き》かないことの限りで、こうして、先方が油断している隙《すき》に飛びかかって、その大力でもって相手を組み伏せるとか、縄をたぐって引き寄せて、自分で安全圏を作っておくとかの余地は十分にありそうなものを、相手に首を巻かれっぱなしで、その死命を制せられっぱなしで、自分の活地を作ろうと、努力するだけの機転の利かないのが、この男の取柄《とりえ》かも知れない。
「それじゃ、若い衆さん」
と七兵衛は、ほぼ、あたりの形勢にも見当がついたらしく、
「私は、これでお暇《いとま》をするからね、この川を飛び渡って柚木《ゆぎ》の方へ出るつもりだから、私がかなり逃げのびたと思う時分まで、お前、騒いじゃいけないよ、泥棒! なんて大きな声を出すと承知しねえぞ」
「大丈夫だよ」
「犬はいねえようだな、あの厄介《やっかい》な犬は、跡をついて来ちゃあいねえようだな」
「大丈夫だよ、ムクは、逃げる者を、そんなに長追いをするような犬じゃありませんよ、それよりか、家を守っている方が大切ですからね」
「それで安心した」
 七兵衛ほどのものが、特に、その犬には弱らされたものらしい。
 そこで、七兵衛は、手にしていた縄の一端をクルクルとまとめて、環《わ》にしてポンと与八の前へ抛《ほう》り出して、
「どうも、窮命《きゅうめい》をさせて済まなかった、済まないついでに若い衆さん、お湯をいっぱいおくんなさい」
「さあ、どうぞ、ここにお椀《わん》がありますから、なんなら、いいお茶もあるだから、お茶をいっぱいいれて上げましょうか」
「そいつは、どうも御馳走さま」
 与八は、せっかく解放された縄をまだ自分の首から放さないで、それよりも先に、この珍客に向ってお茶の用意にとりかかると、この時、七兵衛が炉辺で意外な物を見つけて、じっとそれに眼をつけました。

         二十五

 七兵衛が何事をか注意し出したのに頓着のない与八は、珍客のために、お茶壺から上茶を取り出して、お茶をいれにかかっていると、七兵衛が、
「若い衆さん」
と呼びましたものですから、鉄瓶《てつびん》の湯を急須《きゅうす》に注《つ》ぎながら、
「何ですか」
「そ、そりゃ何だね」
「え、それとは」
 与八は、鉄瓶の湯を急須に注いでしまってから、七兵衛のそれといって指
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