ないすきに、その人の形は、この水車小屋のいずれを見廻しても、認むることができないのであります。
「誰だい」
与八は片膝を立てながら、四方《あたり》を幾度も見廻して、呼びかけてみたが返事がありません。返事がないのみならず、ほとんど人の気配《けはい》がないのであります。
果して人間が入って来たものならば、そのいずれに隠れたにしても、多少の間は、空気の動揺というものが残らなければならないはずでありますが、物音のしたすきまに、その空気の動揺が消え去ったのは――或いは全く空気を動揺せしめずして、身体だけを運行させたもの――それは煙か、幽霊かでなければできないことのように思われますけれど、いま入って来た人は、入って来た人があると仮定して、その人は、たしかにそれを行なっているもののように思われます。
それですから、与八はそこに自分の耳を疑いました。ははあ、これは自分の空耳《そらみみ》だな、犬が吠えて、非常が暗示されたものだから、疑心暗人というようなわけだろう。しかし、戸があいたには確かにあいた。戸があいて、そうして同時に締められるには確かに締められたはずだから、どうもあきらめきれないで、立ちあがってから再び、小屋の隅々までも見廻して、
「誰だい、誰かへえ[#「へえ」に傍点]って来たのかね」
どうも、立去り兼ねるものがある。
「待てよ」
そこで与八は提灯《ちょうちん》に火をうつして、裏の戸口のところへ行って、仔細に、戸と、その板の間のあたりとを、提灯の光で照らして見ました。
それは争われない。尋常の板の間ならば何でもないことですけれど、水車小屋の板の間ですから、粉と糠《ぬか》で、霜を置いたようにいっぱいに塗られてあるところですから、そこに手足の指のあとと、着物で掃かれた粉末の飛散のなごりをとどめないというわけにはゆきません。
「いる、いる、たしかにこん中に、人がいるに違えねえだ」
と与八が声を立てた時、後ろから与八の首へ、すっと一筋の縄が巻きつきました。
その縄に巻かれると、大力の与八が、もろくも囲炉裏《いろり》のそばまで引き戻されてしまいました。それは拒《こば》めば首がくくられるからです。自分の力で、自分の首をくくられるのがいやならば、おとなしく、引かれる方へ引き寄せられるよりほかはない。その点においては、与八は天性心得た無抵抗の呼吸を、のみこんでいるもののようでもあります。
しかし、後ろから音もなく、与八の首へ縄を巻きつけたその人とても、必ずしも与八をくびり殺そうとして、そうしたわけではなく、この際、与八に声を立てられることを怖れての非常手段と見えますから、あちらからいえば、正当防衛の一手段に過ぎないかも知れません。大へんおとなしく、素直に与八を引き寄せて来て、
「声を立てないでおくんなさいね、少しの間、ここへ、私を隠しといて下さい、たのみますよ」
その人が、与八を引据えるようにして、自分もそれと向い合って、炉辺に坐りこんでしまったのを見ると、与八には馴染《なじみ》とはいえないが、珍しくもない裏宿七兵衛でありました。与八は、恐怖と、驚愕と、それから与八にしては珍しい幾分の叱咤《しった》の気味で、
「お前さん、どこの人だか、不意にはいって来て失礼じゃねえか」
ゆるめられた縄の下から、与八がこう言いました。七兵衛は騒がない声で、
「どうも済まなかった、かんべんしておくんなさい。実は今そこで、おそろしく強い狂犬《やまいぬ》に出逢《であ》ったものだから、逃げ場を失って、こんな始末さ。なにも、お前さんを苦しめようのなんのというのが目的じゃねえんですから、どうか、勘弁しておくんなさいまし」
「うん――」
と与八は、おとなしい眼を不審の色に曇らせて、改めて七兵衛の姿を見やり、見おろし、
「お前さん、狂犬《やまいぬ》に吠《ほ》えられたとお言いなすったね」
「ああ、どこの犬だか知らねえが、この上の方に、おっそろしい強い狂犬がいるよ」
「お前さん、ありゃ狂犬じゃありませんよ」
「え、どうして」
「ありゃ、ムクですよ」
「ムク……」
「ムクが吠えたんですよ」
「ははあ、なんにしても、すっかりオドかされてしまいましたよ」
「お前さん」
与八は、しげしげと七兵衛の姿を見ているから、七兵衛は少しバツが悪く、
「何だい」
「お前さん、何か悪いことをしたろう」
「えっ」
「何かお前さん、悪いことをして来たね」
「飛んでもねえ、私は何も悪いことなんぞをする人間じゃあねえ、この通り、六郷下《ろくごうくだ》りの氷川《ひかわ》の筏師《いかだし》だよ」
「いけねえ、お前さん、何か悪いことをして来たから、それでムクに吠えられたのだ」
「冗談《じょうだん》いっちゃいけません、犬に吠えられる奴が、みんな悪い奴であった日にゃ、夜道をする奴はみんな泥棒……だね」
「犬
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