す。自分の両親の、せめてその一方をだけでも、与八は知って置きたいという常々の願望を、口には出さないけれど、その折々《おりおり》にお松が察しているものですから、お松から勧めて、その捨てられたという場所へ地蔵様を立てさせたり、それを最初に見つけたという人の縁故をたどったりして、何がな与八の本心のよろこびを迎えようと力《つと》めているくらいですから、お松の方から改めて、こんなことを言い出すのは、自分としても心持よくないし、与八をもかなり失望させるに相違ないとは思いながら、何か思いさわる事あればこそ、こうも言い出してみたのでありましょう。しかも、思い止まろうかと言い出したお松に、思いとどまる気のないように、どうでもいいことのように、返事をした与八にも、必ずしもどうでもいいとは、あきらめ切れないことでしょう。
そこで、お松は、何ともつかずにこう言いました、
「ねえ、与八さん、もし、お前の本当のお父さんという人が、悪い人だったら、どうしますか」
そこで与八が、
「悪い人だって、親は親だからなあ」
と返答しました。
「でも、その悪いというのが、ただ喧嘩が好きだとか、お酒のみだとかいうばかりじゃなく、もしかして、悪い罪を犯している人だったらどうします」
「悪い罪を犯したって、犯さなくったって、血を分けた親子の縁というものは、切っても切れねえだろう、ねえ、お松さん」
与八は食事を終って、箸《はし》を下に置きながらこう言いますと、お松が、
「それは、そうに違いないけれど、もしかして、そんな人であったなら、いっそ、尋ねない方がいいじゃないかしら」
「どうしてね」
「せっかくの与八さんまでに、迷惑がかかるといけませんからね」
「そうかなあ」
与八の面《かお》の色が少し曇ります。それを慰め面《がお》にお松が、
「ねえ、与八さん、生れぬ先の父ぞ恋しきという歌を御存じでしょう、生みの親も大事だが、それよりも大事なのは、生れぬ先の親だと、大禅師が説教でおっしゃったのを、お前も聞いていたでしょう」
「うむ」
「おたがいに、生みの親を尋ねることはやめてしまいましょうか――」
とお松から言われた与八は、箸を置いたまま、小山のように坐って考え込んでいました。
食事が済んでから与八は、また道場へ戻って、そこで再び藁打《わらう》ちをはじめようとしました。
暗いものですから、行燈《あんどん》をともして、それから仕事にかかろうと、片隅の方に置いていた行燈に、さぐり足で近寄ろうとして物につまずきました。
なにかしらん。思いがけないところで、物につまずくと、そのハズミでバリバリとその物を踏み裂いてしまった音がしたので、与八も狼狽《ろうばい》して手さぐりにして見ると、相応の四角な薄手のものを包んだ風呂敷包です。
はて、こんなものをここへ、自分は置いといたはずはないのだが、何か知らん。どうした間違いか知らん、今の足ざわりと、物音では、自分が、この中のものを踏み砕いてしまったことは確かである。はて、大事なものであってくれなければいいが……
そこで、与八は歩き直して、ようやく行燈に火をつけて、そこで今の踏み砕いたものを見ると、いつも、お松さんが持ってあるく風呂敷には違いない。では、お松さんがここへ置いといたのだ。それを自分が過《あやま》って踏み砕いてしまったのだ。中は何だろう、済まないことをした、どうも済まないことをした、と与八は一層の心配をはじめました。
包み方が簡単であったために、その一端が風呂敷の外に露出しているから、中の品物の何物かを認めるのは骨が折れません。それはありふれた納め物の絵馬《えま》です。そこらの辻堂の中あたりにいくらも見られる絵馬であることは確かだが、絵馬だからといって、踏み砕いてしまったのでは相済まない。修繕の工夫はないものか知らんと、知らず識《し》らず与八は、もうすでに片肌ぬぎになっていた絵馬の全身を露出させてしまって見ると、無残にも、それはホンのハズミに踏んだばかりですけれども、与八の馬鹿力で一たまりもなく、真二つに踏み裂かれてしまっていて、繕《つくろ》うべき余地もありません。
済まないことをしてしまった。せっかくお松さんが大事にして持って来たものを、自分が足にかけて踏み砕くなんて……そんなところへ置いたものが悪いか、それを踏んだ者が悪いかは考えずに、与八は只管《ひたすら》に、自分のみが悪いことをしたと恐懼《きょうく》して、行燈の下へ持って来て、ひねくってみましたが、その時まで閑却《かんきゃく》されていたのは絵馬の面《おもて》です。それは与八が血のめぐりの悪いせいばかりではありますまい、大抵、この類《たぐい》の絵馬の模様というものはきまりきったもので、特別の注意を惹《ひ》くべき絵であろうはずもなく、また描き方も尋常一様に、板に乗っていた
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