せいかも知れません。
二度目に気がついた時、与八もさすがに驚かされてしまいました。
何ということだ、この絵馬には人間の生首が描いてある。しかもその生首とても、尋常一様の小児のたわむれではない、相当の分別ある人が描いたもので、しかも梟物《さらしもの》になって、台の上へのせられているところの図にまぎれもありませんから、血のめぐりの悪い与八も、驚かないわけにはゆかなかったものです。
いたずらにしても、イヤないたずらだ。それをまたお松さんが、後生大事《ごしょうだいじ》に、風呂敷に包んで持って来たのは、どうしたわけだろう。それをまた、あの行届いた人が、こんな人の踏みそうなところへ置きばなしにして、忘れてしまっているらしいのも合点《がてん》がゆかない。と、ここに至ってはじめて与八は、お松のお松らしくない物の扱い方を考えてみる気にもなったようですが、どうしても、これはあやまらなければならない。
と、風呂敷へ包み直して、そこへ置きましたが、さいぜんの食事の時のお松の言葉といい、こんな不意のイヤなハズミといい、何となく物を思わせられるような晩であると、急に立つ気もなく、胡坐《あぐら》を組んだままで、やや長い時、ぼんやりとしていましたが、あやまりに行こうともせず、そのまま槌《つち》をとり上げて藁《わら》を打ちにかかりました。
与八がこうして、ボンヤリと考え込みながら藁を打っていると、表の戸をトントンとたたいて、
「与八さん、与八さん」
「お松さんかい」
「あのね、与八さん、わたし、忘れ物をしましたが、そこらに風呂敷包がありませんか」
「ありましたよ」
「済みませんが、ここの窓から出して頂戴《ちょうだい》な」
「待っておくんなさい」
与八は槌を下へ置いて、手を延ばして、風呂敷に包んだ例の絵馬を引き寄せながら、
「お松さん、あるにはあるが、ほんとうに済まないことをしちまったよ」
「どうしたの」
「あのね、暗いところにあったものだから、ツイ、わしが足で踏みつぶしてしまいましたよ、それで今、あやまりに行こうと思っていたところだよ」
「まあ……」
外に立っていたお松は、その時、外から手をかけて戸を引きあけて中へ入って来ました。
「沢井」という字だけが見える手ぶら提灯《ぢょうちん》をさげていましたが、
「それは、わたしが悪かったのよ、そんなところへ置きばなしにしておいたから、わたしが悪かったのです」
「こら、こんなにグダグダに砕けてしまった、ほんとうに申しわけがありましねえ」
「かまいません」
お松は、踏み砕けたままに風呂敷に包まれた絵馬を、与八の手から受取って、
「かまいませんとも、イヤな絵だから、このまま捨ててしまおうと思っていたくらいなんですもの」
「お松さん」
「ええ」
「お前は、どこから、そんなイヤな額を持って来たの」
「与八さん、お前、この中を見てしまったのですか」
「ああ、見てしまったよ、わしもイヤな額だと思った、お松さんがこんな物を持ち歩くはずはねえと思ったから、誰かのいたずらじゃねえかと思ったが、それでも風呂敷がお松さんのだから……」
「そうよ、わたしのに違いないのよ、わたしは妙なところでこれを手に入れたものだから、与八さんに見せようか知ら、それとも見せまいか知らと、考えながら、つい置き忘れたんですが、見られてしまっては、もう仕方がないが、気にしないで下さい」
「別に気にするでもねえが、誰のいたずらだか」
「ねえ、与八さん、あとで、お風呂の下かなにかで焼いてしまって頂戴な」
「うん」
「それから与八さん、もう一つ済みませんがね、これからちょっと、水車小屋まで行って来て下さいな」
「何しに」
「お米がなくなったそうですから、一俵持って来てやって下さいな」
「よしよし」
と与八は膝の藁屑《わらくず》を払って、台や、槌《つち》を片寄せながら、
「急ぎかね、お松さん、米のいるのは」
「なに、今晩と、明日の朝の分はあるんですとさ」
「ははあ……じゃあ、今晩、わしぁ、あの水車小屋へ泊って、明日の朝早く持って来りゃあ、それで間に合うね」
「え、それで間に合います」
「じゃあ、わしぁ、今晩は水車小屋へ泊って来るかも知れねえ、どっこいしょ」
与八は立ち上りました。
「じゃあ、頼みましたよ」
お松は砕けた絵馬の風呂敷を取りに来ながら、受取らずして行ってしまいました。
しかし、いったん立去ったお松が、まもなく取って返し、
「ねえ、与八さん」
「何だね」
「もう一つ言って置くことがありますよ、あのお隣りの作蔵さんがお湯に来ての話ですが、昨日あたりこの村へ、お役人に追われて、悪い泥棒が一人入り込んだんですって」
「へえ……」
「だから、用心をおしなさい。また怪しい者と見たらば、つかまえるか、お役所へ申し出るように、触《ふ》れが廻ったんですって」
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