の与八の生立《おいた》ちは、当人にも、周囲の人たちにも、わかり過ぎるほどわかっているにかかわらず、今以てわからないのは、それは与八を捨てた人です。この子を捨てたのは誰だ――弾正はあまり強《し》いて、それを探索させようとはしませんでした。どのみち、子を捨てるくらいの親には、親として忍びない事情と、理由があるに相違ない。それを探索して、当人に引渡してみたところで、どれほど両者の幸福が回復するのだろう。
そこで、弾正は、自分が拾った以上は、自分に授かったものだ、よかれ悪しかれ、この子の運命を見届けようではないか、という気になって、自分の子と同様に、可愛がって育ててやったものです。
体格が異常に発達し、力が一年増しに強くなるに反して、知恵の廻りが遅いことを認めて弾正は、いっそう不憫《ふびん》がりました。弾正の心では、もし普通の人間に生れついていたならば、わが子の竜之助と同じように、教育を与えたことでしょう――しかし、こんなふうに生れて、頭が器用に働かず、好んで労働に当り、力役《りきえき》を苦としないから、あつらえ向きの水車番――
それで、ああして、こうなって、今日に至っているが、お松がそれを知ってみると、どうしても与八のために、生みの親を探してやりたい――という同情に駆《か》られてしまうのも無理はありません。実は、今日もここへ来たのは、それが主なる目的なのであります。ここへ記念のお堂と、石像を立てさせたのも、これが縁になって、何か与八の生みの親をたずねる手がかりにはならないかと思い立ったのも、その一つの理由でありました。
与八が特志の草鞋《わらじ》を、地蔵堂の軒にかけてしまってから、お松は堂内を仔細に見廻しました。見廻したといっても、さして広くもなんともない堂内のことですから、そこには、いつ、誰がするともなく、たくさんの絵馬《えま》が納められてあったり、達磨様《だるまさま》の古いのや、昨年来の御幣《ごへい》や、神々のお札や、髪の毛の切ったのが髢《かもじ》なりに結えられてあったりするだけのものでしたが、そのなかでただ一つ、異様にお松の眼についたものがあります。
まだ、ほんとうに新しい、この中ではいちばん新しい絵馬が一つ、わざとしたようにお地蔵様の首にかけられてあるのを、お松が異様なりと認めました。それは狭いお堂とはいえ、絵馬をかけるには、おのずからかけるだけの場所があるべきものを、その絵馬だけは一つ、わざとしたもののように、地蔵の首から、袈裟文庫《けさぶんこ》でもかけたように、前へつるし下げられてあるのであります。
妙なところへ絵馬をかけたものだ、信心の人ならば、少し作法を忘れ過ぎている、また、大人のいたずらにこんなことをするはずはない、と思いましたから、お松はその絵馬を外《はず》そうとして、はじめて、ギョッとしました。
というのは、その絵馬が、大きさにおいても、内容においても、特別に入念の作というわけではなし、その絵も、普通ありきたりの拝礼の図だとか、「め」の字だとか、飾り立てた馬とか、鶏とか、天狗の面とかいったようなものを、型通りに描いてあるものとばっかり、大目に見ていましたところが、手に取ろうとして見ると、それは人間の首を描いてあるのだと知りました。
人間の首も、ただの首ではない、獄門台に梟《さら》されている人間の生首を一つ描いてあることにまぎれもないのですから、お松が面《かお》の色をかえないわけにはゆきません。
「まあ、なんという不祥《ふしょう》な……」
これは誰でもいい心持はしないでしょう。犯《おか》せる罪あって、お仕置に逢って、刎《は》ねられた首が六尺高いところに上げられている運命。それを絵馬《えま》にうつして、神仏の御前に奉納するというのは、全く例のないことで、そうして、いたずらとしても無下《むげ》、非礼としてもこの上もない仕事であります。
それも、子供のいたずらではない。相当の心がけを持って、絵馬師に描かせたものではないが、普通の人が、かなり丹精に、絵馬の筆勢に似せて描いたものであります。
お松は、何ともいえないイヤな思いをさせられながら、手をのべてその絵馬を取外《とりはず》し、なお念のために、その絵馬の裏を返して見ますと、そこには、これも相当の老巧な筆で、単に「巳年《みどし》の男」と認《したた》められてあるのを発見しました。
絵といい、文字といい、これはお松にとっては容易ならぬ謎《なぞ》となりました。これを納めた人の心こそ、測りがたいものだと思いました。
幾度か、打返し打返し見た後に、お松は何かハッと打たれたものがあるように、自分の胸を打つと、馬の背の上から風呂敷を取り出して、その絵馬を包んでしまい、そうして、大切に鞍《くら》の前輪へ結びつけておきました。
そうしておいてから、さて改まった気
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