、ここから直線を引いてみたとて十五里とはないでしょう――そこで二里三里と進んで、武蔵野をわけて行くほどに、例の武蔵アルプスが遠ざかり行くにつれて、軒を離れて棟を見るような順序で、山山峰々が、それからそれと現われて来る。
今日でも、復興の東京の騒々しい物音を数十尺だけ超越して、たとえば、駿河台、本郷元町台、牛天神、牛込赤城神社、谷中、白金《しろがね》、高輪台《たかなわだい》あたりか、或いは市中の会社商店等のビルヂィングの高塔の上に身を置いて、天候の至極よろしい日――例えば初冬から早春に至る間の快晴の日、東京では秒速七八|米突《メートル》から、十米突ぐらいまでの北西の風が帝都の煙塵を吹き払うの頃、それも山地に降雪多く、ややもすれば水蒸気が山の全容を隠すことの多い十二月から二月は避けて、三月から四月へかけての雨上りの朝の如上の風速のありそうな日――この一年のうち、いくらもなかるべき注文の日を選んで、数十尺の超越から帝都の四境を見渡すと、そこに都人は、崇高にして悠遠《ゆうえん》なる山岳のあこがれを呼びさまされて、自然と、人生との、髣髴《ほうふつ》に接触することができる。
千九百六十|米突《メートル》の白岩山がある。二千十八米突の雲取山がある。それから武州御岳との間に、甲斐《かい》の飛竜、前飛竜がある。御前と大岳《おおたけ》を前立てにして、例の大菩薩連嶺が悠久に横たわる。
天狗棚山があり、小金沢山があり、黒岳があり、雁ヶ腹摺山がある――ずっと下って景信《かげのぶ》があり、小仏があり、高尾がある。
いったん脈が切れて、そうして丹沢山塊が起る。蛭《ひる》ヶ岳《たけ》があり、塔ヶ岳があって、それからまたいったん絶えたるが如くして、大山阿夫利山《おおやまあふりさん》が突兀《とっこつ》として、東海と平野の前哨《ぜんしょう》の地位に、孤風をさらして立つ。富士は、大群山《おおむれやま》と丹沢山の間に、超絶的の温顔を見せている――
お松と、ムク犬とは、こんな背景のうちに馬を進ませているのであります。
お松は街道に沿うた大きな雑木林のところに来ると、馬から器用に飛んで下りました。
お松の下りたところの路傍の林の中には、形ばかりのお堂のようなものがあって、その中に立像の石の地蔵尊が安置されてある。お堂も、石像も、まだ新しい。
下りると、馬の鞍《くら》につけて来た十何足の草鞋《わらじ》を片手にかかえて、お松がその地蔵のお堂に近づきました。
ムクは心得て、早くもお堂の前に大きな狛犬《こまいぬ》の形をして坐り込んでいる。
地蔵尊にお辞儀をしてから、お松は鞍からおろした十何足の草鞋を、堂の柱にかけました。これは与八の特志に出づるもので、こうして手づくりの草鞋を堂の前にかけて、道中、草鞋の切れた人の自由に取るに任せてあるものです。
実は、このお堂と、地蔵様とも、あまり久しからぬ以前に与八が立てたもので、無論、このお像が、与八の手に刻まれたものであるのみならず、このお堂もまた与八の手になって、与八の手で運ばれ、一切が手づくりになった地蔵菩薩の霊場であります。しかし、その発願主《ほつがんぬし》はむしろお松というのが至当で、お松が、与八さん、どうしても、ここへこういうものをお立てなさい――そのお地蔵様も、お前さんが諸方で頼まれてこしらえるより、もう少し大きいの、大菩薩峠の上へのぼせたほどのものでなくとも、かなり目に立つようなものをおこしらえなさい、そうして、お堂も形ばかりでも屋根のあるのを、お立て申して上げようじゃないか――とお松が発願して、そうしてここへ、これだけのものを立てさせたのです。
なにゆえに、ことさらに、こんな、格別、形勝の地ともいえないところへ――ことに、ほとんど街道に沿うて――この街道は、江戸からいえば、大菩薩峠に通ずるの甲州裏街道であり、こちら方面からいえば、江戸街道であるが――この物淋しい野中の街道の、人家には程遠いところへ、何の縁故で、お松が与八にすすめてお地蔵様を立てさせたのか。
それにはそれで、なるほどと思われる理由があるのです。つまり、このところこそ、十九年以前に、与八が何者かの手によって捨てられたところで、同時に何人《なんぴと》かの手によって拾われたところなのです。捨てられるのと、拾われるのは、大抵の場合、ほぼ時を同じうしていなければならぬ。
与八を捨てたのは誰だかわからないが、拾った人はよくわかっている。わかり過ぎるほどわかっている。机竜之助の父の弾正《だんじょう》が、江戸からの帰りがけに通り合わせて、捨てられてからまだ二時《ふたとき》とは経たない間に、それを拾い上げて、その時も今と同じように、弾正は江戸から馬で来て、拾うのは従者に拾わせたが、自分が抱き取って、沢井まで馬に乗せて連れて来たものです。
それから後
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