が、主膳が足を留めないわけにはゆきません。
 しかし、二人は湯殿の中で、内密話《ないしょばなし》をしているわけではなく、平常、座敷でする通りの熟しきった会話を取交しているに過ぎないから、ところが湯殿だとはいえ、邪推をする余地は少しもありません。
 だが、平常の話を、平常の通りにするならば、なにも湯殿を選ぶ必要はないではないか。この屋敷には有り過ぎるほど室が幾間もあるので、七兵衛の座敷として、ほとんど開《あ》かずの間《ま》のようになっているところもあるのです。なんだって、今朝に限って、湯殿の中で誰|憚《はばか》らず話をしているのでしょう。
「ねえ、七兵衛さん、あの子を、もう一度つれて来て下さい、お前が連れて来る分には、あの子だっていやとは言うまい」
 これはお絹の声。
「そうでございますねえ、来いといえば来るかも知れませんが、いつきますまいよ」
 これは七兵衛の返事。
「あれが、本当のわたしの子であってくれればねえ」
「それは、あなたが、あれを本当の子供として可愛がって下さらないからですよ」
「それは、どういうわけだろう、あの子のためには、わたしは本当に親身になって、仕込むだけの事は仕込み、出世のできるだけは出世するように丹精をしたつもりですけれど」
「けれども、それが、あなた様のはね、何か自分が利用をしよう、為めにしよう、という頭が先でお世話をなさるから、親切がそれほど、あれに響きません」
「なぜか、あの子は、わたしになつかない、わたしに楯《たて》をつくようなことは一度もないけれど、心からわたしになついてくれない」
「それは、そうかも知れません」
「今、あの子はどこにいます」
「田舎《いなか》の方へ行っております」
「田舎へ行って、何をしていますか」
「いろいろ、よく働いておりますよ、自分のためにも、人様のためにも……」
「縁づいたというわけでもないのですね」
「エエ、いいところから随分縁談もありましたようですけれど、あの子には、身上《しんしょう》を持つ気は少しもないようです、このごろは寺小屋をはじめて、子供たちを教えていますよ」
「まあ、あの子が、手習のお師匠さんになっているの?」
「手習のお師匠さんばかりじゃありません、若い衆、娘たちの相談相手から、夫婦喧嘩の仲裁まで、あの子が世話を焼いておりますよ、感心なものです」
「まあ、そんなでは、とてもこんなところへ帰ってはくれまい」
「ええ、あれはあれで、自分の天職が定まったような心持で、おちついているようです」
「では、わたしの方から、尋ねて行ってみようか知ら」
 こんな、しんみりした会話のみで、外で聞いても、内で聞いても、聞き苦しいところは少しもない。それだけで、湯殿の中で二人が、水入らずで、流しているのか、流されているのか、更にわからない。

         二十一

 ここで話題にのぼったのはお松のことで、そのお松は、ちょうどその日のその時分は、青梅《おうめ》の町はずれを、武蔵野の広い原へ向けて馬を歩ませておりました。
 お松のやや遠道をする時は、大抵は馬に乗るのが常で、お松が馬に乗ると、早くもムク犬がその馬側にかしずくのも一つの例であります。
 今日もその通りで、青梅を出でて、武蔵野のはじまるところを、新町というのへ馬を歩ませました。
 青梅という町は、秩父連峰と、武蔵野の原との分岐点であります。秩父連峰を一つの長城と見れば、青梅の宿《しゅく》がその大手の関門でありましょう。青梅を出でてはじめて、本州第一の平原、武蔵野を見る。単に武蔵野とはいうが、関八州の平野は、武蔵野の延長に過ぎません。
 それと同時に、足一歩、青梅の宿に入れば、身は全く武蔵アルプスの尾根に包まれて、道は全く奥多摩渓谷の薬研《やげん》の中を走ることになっている。
 ですから、青梅鉄道という十数|哩《マイル》の私設の小鉄道の電車が、青梅の宿から東へ、次の河辺《かべ》という駅まで走る途中、東北の方を車窓から見ると、そこに地平線の立つ一カ所がある。北海道を除いて日本内地では、天と陸とが一線を引いて相接するところは、おそらくこの一カ所の沿線のほかはないだろうと思う。少なくとも、汽車電車の車窓から眺め得る範囲で、月の入るべき山もなし、という地平線を見られるのはここのほかになかろうと、著者の貧弱なる旅行の経験が教える。それは秩父連山の尾根が青梅あたりで尽きて二里、狭山《さやま》の丘が起るまでの間。
 お松は、今その武蔵野の地平線の立つあたりを、東北に向って馬を歩ませて行くのです。そこで、前途は渺茫《びょうぼう》たる海原《うなばら》へ船を乗り入れて行くような感じもしないではないが、翻って見ると、秩父の連峰、かりに名づけて武蔵アルプスの屏風《びょうぶ》が、笑顔を以て送るが如くたたずんでいる。
 しかし大江戸の真中へ
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