痛い目をさせて気の毒だった、これがお前に似合うようなら着てごらんといって、くだし置かれたのがこの羽織なんでございます、何といっても恐れ入った気前でございますよ」
 そこでお絹の顔の色の変ったことが、この野郎にはわからない。
 話を聞いているうちにお絹の顔色が、みるみる不快なものになって行くのはあたりまえのことです。
 それに頓着あってか、無くてか、金助は、立てつづけに、女軽業の親方のお角なるものの、気前の礼讃《らいさん》にとりかかる。
「全く恐れ入ったものでゲス、あの気前でなければ、ああして一座を背負って立つことはできません、もとの怨《うら》みなんぞは、すっかり忘れて下すって、金公、ソレこの羽織をやるから着て行けなんぞは、嬉しい心意気じゃございませんか」
「馬鹿野郎」
 さすがのお絹も受けきれなくなって、今度は、思いきり力を入れてひっぱたいてしまいました。
 これは、以前の続けざまにたたいたのよりは、ズッと痛かったと見えて、
「あ!」
といって、頭をおさえながら、しかめっ面《つら》をしてしまっていると、
「帰っておしまい」
 頭を押えて、しかめっ面をしているところを前からトンと突いたものですから、もろくも、再び後ろへひっくり返ったものです。
「けがらわしいから、お帰り、こっちだって腕ずくなら、乞胸《ごうむね》の親方に負けないくらいのことは仕兼ねないよ」
 以前の時は、おもちゃであったが、こうなっては、お絹が真剣におこり出したようなものです。真剣におこらしては金公の、もくろみが外《はず》れたかも知れません。
 この手で暗に女軽業の親方の気前のよいところ、器量のあるところを持ち上げて、遠火であぶっておけば、こっちも女の意地でも負けない気になって、風通《ふうつう》の袷《あわせ》ぐらいは奮発にあずかれるかも知れないという、内々の当込《あてこ》みがフイになってはたまらない。本当におこらしてしまったのでは引込みがつかない。
 いったい、お角の前でお絹をほめることと、お絹の前でお角をほめることとは、どっちにころんでもこういう結果になることを、金助としても心得ていそうなものを、おっちょこちょいというものは、これだから仕方がない。
「悪気で申し上げたんじゃございません、どうぞお気を直していただきたいもんで」
「けがらわしいよ」
 お絹はよほど、癇《かん》にこたえたと見えて、いったん火鉢の中へ納めた火の、かんかん熾《おこ》ったのを二度《ふたたび》、火箸の先でツマみ上げて、今度はいささかの情け容赦もなく、ゾロリとした羽織の袖をひっぱった上へ載せると、ゾロリとした羽織がジリジリと音を立て、むんむんと臭いと煙を立てて焦《こ》げはじめました。
「こいつは堪らない、これこそ真に驚きました」
 金公は、天下の一大事とばかりに、その火を払い落しにかかると、因果なことにはそれが膝の上へ落ちたものだから、みるみる膝の上が焦げ出して、
「熱《あつ》! 熱! 火水《ひみず》の苦しみ」
と叫びを立てました。しかし、お絹はよくよく腹に据《す》え兼ねたと見えて、それほどに苦しがる金公の羽織の袖を少しも放さず、第二の炭火を取って、今度は左の方の袖へのっけてしまいました。つまり火事が三方から起ったわけですから、金公、悲鳴を上げて苦しがり、
「おいたずらが過ぎます、いくら金公にしましても、これはあんまりでございます、もうこの羽織は着て行かれません、この羽織を両国へでも着て行ってごろうじませ、それこそ焼き殺されてしまいます、ああ、どちらへ廻っても絶体絶命でございます、おゆるし下さい、この通りでございます」
 金公は両手を合わせて、お絹を拝んだけれども、お絹はいっかな聞かず、その火を金助のふところへ投げ込んでしまったから、金助が飛び上ったところへ、あまりの騒がしさに、障子をあけて、
「いったい、何事が始まったのです」
と現われたのは七兵衛です。
 七兵衛が現われたために九死の境を逃れた金公は、血相を変えてこの席を飛び出して、それでも今度は間違いなく、自分の穿物《はきもの》をさらって、門の外へ走り出してしまいました。

 ややあって、神尾主膳は安達のところへ碁を打ちに行こうとして、ふと湯殿の側を通りかかると、そこで思いがけない人の話し声を聞きました。思いがけないといっても、全然、頭にない人の声ではなく、あり過ぎるほどある人の話し声を、意外なところで聞いたものですから、それでかえって足を留めないわけにはゆかなかったのです。
 というのは、その湯殿の中で、遠慮なく話し合っているその声は、お絹と、七兵衛の二人であったからです。お絹と、七兵衛と、話をする分にはなんでもないことで、いつでも無遠慮に話し合っていることだが、今朝はこれが湯殿の中だけに妙であります。
 そこで立聞きをするつもりではない
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