お仕着《しきせ》を、ほかならぬ金公にかぶせてやる奴があるものか」
「ところが現在ごらんの通り、その外《ほか》ならぬ金公なるものが、こうしてゾロリとしたやつを着込んでいらっしゃるんだから争われませんや、あやかり[#「あやかり」に傍点]たいと思召《おぼしめ》しませんか」
顎《あご》を撫でて、頭をぬっとお絹の前に突き出したものだから、お絹が、
「この野郎」
と言って、ピシャリと金公のそりたての頭をなぐりました。本来、なぐるつもりは無かったのでしょうが、ハズミがよかったと見えて、ちょっと振り上げた手が、程よく金公の突き出した頭と出逢《であ》ったものだから、そこでピシャリという、あつらえたような音がしたものと見えます。
「こいつは恐れ入りやした、これは驚き入りやした、暴力は恐れ入ります」
金助が、けたたましい声を上げて、仰山《ぎょうさん》な驚き方をして、打たれた頭を、盛んに撫でさすりましたから、お絹が、
「もう一つ打《ぶ》って上げようか」
手を振り上げたところが、金公、存外騒がず、
「結構でございますな、もう一つ打《ぶ》っていただきやしょう、打ってお腹《はら》が癒《い》えるものならば、たんとお打ち下さいまし、あなた様に打たれるのは、あの人に打たれるのと違いまして、痛くございません、どうぞたんとお打ち下さいまし」
といって、いけずうずう[#「ずうずう」に傍点]しく金公が、またもその頭をお絹の前に突き出しました。
お絹も、いよいよ呆《あき》れ返って、
「望みなら、いくらでも、ひっぱたいて上げるよ」
かの女は、金公の頭を続けさまにぴしゃぴしゃとはたきました。
「痛くございません、あの人にたたかれるよりは、決して痛くございません」
いい気になって、いくつでもたたかせているから、お絹も張合い抜けがして、こんな安っぽい頭を、いくつたたいてもたたきばえがしないと見切り、手荒く突き放してしまったものですから、ハズミを食って、三尺ばかりケシ飛んでしまいました。
「これは驚きました、これは恐れ入りやす」
ケシ飛ばされたのをたて直して、いざりよって来たところを、お絹が火鉢の炭を火箸《ひばし》でつまみ、片手でゾロリとした羽織の袖口をひっぱって、
「さあ、お前のようなおっちょこちょいに、この羽織をくれた人は誰だか、言っておしまい、それとも、どこからちょろまか[#「ちょろまか」に傍点]したか、それを白状おし」
「これは驚きました」
「言わないとこうだよ」
お絹は、そのゾロリとした羽織の紬口をひっぱったその上へ、火のかたまりをあてがったから、金の野郎驚くまいことか、
「白状しますから御免下さい」
「さあ、言っておしまい」
「白状致します、白状は致しますが、それをお聞きになって、あなた様がお気を悪くなさるといけません」
「冗談《じょうだん》じゃない、お前のようなおっちょこちょいの、のろけを聞かされたって、ドコの国に、気を悪くなんぞする奴があるものか」
「では申し上げちまいますが、それは、あの実は、両国の女軽業の親方のお角さんから拝領の品なんでございます」
「え!」
「そうらごらんなさい、あなた様、お気を悪くなさるんじゃございませんか」
「知らないよ」
「だから、最初から申し上げないこっちゃございません」
「ばかばかしいにも程のあったものさ、このおっちょこちょいに、こんな羽織を恵むなんて――ほんとうに、見世物師でもなけりゃ出来ない芸当だ」
「それにはね、それで、曰《いわ》くがあるんですから、まあお聞き下さいまし」
「曰くなんぞは聞きたくないよ」
「まあ、そうおっしゃらずにお聞き下さいましな、拙《せつ》がこの羽織をいただくまでには、涙のにじむような物語があるんでございますよ、あだやおろかの話じゃございません」
「何にしたって、こんな羽織は、この野郎には過ぎ物だよ」
「そう、おっしゃられては二の句がつげませんが、実はごしんさま[#「ごしんさま」に傍点]、なぐられ賃ですよ、なぐられ賃に、お角さんからこの羽織をいただいちまったんでございますよ」
「よく殴《なぐ》られる男だねえ」
「しかも、その殴られっぷりが、あなた様のなんぞとは違って、ずいぶん手厳しいものでございましたからね、一時は、息の根が止まるかと思いましたよ、命からがら、両国橋まで逃げのびて、そこでやっと、息をついて命拾いをしたような始末でございます」
「ふーん」
「それから、二三日前に伺いますてえと……」
「まあ、それほどの目に逢いながら、またずうずうしく出かけたのかい」
「なあに、さすがの金公も、暫くは敷居が高うございましたが、あの親方が、熱海から湯治《とうじ》帰りと聞いたもんですから、恐る恐る伺ってみますと、そこは江戸ッ児ですから、さらりとしたもので、以前のことなんぞは忘れて下すって、金公、この間は
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