かりであるか、また一つの変った悪業の種となるかはわかりません。彼はこの機会にはしなくも、おさな子の本性《ほんしょう》を呼び起して、故郷に帰る心を以て、人間の本性にさかのぼるの発心《ほっしん》を起したものか、或いはこの世の最も罪のないものを捉えて、自分の邪悪のすさびに食糧とするつもりか、そのことはわかりません。
 ただ、この際、主膳がこれからひとつ、子供を遊び相手にしてやろうとの心を起したのは、布袋子《ほていし》が、子供に取巻かれたというのが羨《うらや》ましいのでもなく、越後の良寛和尚が、子供に愛せられたのを模倣してみたいというのでもなく、まして、かのお松と、与八とが、武州沢井の奥で、子供らのために、友となっているそれとは、心に於ても、形に於ても、天淵《てんえん》の差あることは勿論《もちろん》なのであります。
 しかし、かりそめに主膳が、こんな心を起してみている際に、お絹という女は、お絹という女らしい退屈まぎれの方法を考えているのでありました。
 今日は、またひとつ、お芝居にでも出かけてみようか知ら――
 これが、この時のお絹の思案であります。芝居見物もいいが、いつも同じ女の子を相手にして見に行くのではつまらない、誰か相当の連れはないかしら。
 わかりがよくって、話の面白い連れがあれば、同じ芝居でも、いっそう面白く見られるのだが――そんなものは有りはしない。
 誰か当りをつけて、押しかけて行って、ひっぱり出してやろうか知ら。
 そういう謀叛《むほん》を考えている一方、神尾主膳もまた、さあ、これからどこへかひとつ、出かけて行ってやりたいものだが、さて、どこへ行こう。これは芝居でもあるまいし、さりとて、もうこの倦怠《けんたい》しきった身体《からだ》のやり場と、えぐりつけられた顔の傷のさらし場とては無い。
 こう、同じ家で、同じように倦怠と、退屈のやり場に困っている者が重なれば、相見たがいで妥協が出来そうなものだが、どちらもそこへ気がついて、自分から先に妥協の手をのべようとする者はないらしい。
「まあ、仕方がない、お絹の奴のところへ、当座の退屈しのぎにでも出かけようかなあ、鯨汁のようなもので、度々では鼻につくが。それにあいつ、話の数をたんと持たないから、飽きが来た日には、退屈の上塗りをするようなものだが、仕方がない時は仕方がない――せめて、あいつが碁でもやれるといいんだがなあ。碁でもやる気になれば、まだ頼もしいんだが」
 そこで主膳は、満腹の上に、また何かを食べさせられている、やむなく箸《はし》を取るような気持で、身を起してお絹の部屋へ行こうとする時、やはり庭先へパサと音がして、天から物が降って来たように、縁の上まで落ちかかったものがありました。
 これは凧《たこ》ではない。凧でないことは、主膳もとうに心得ていて、立ち上りながら、
「やあ」
と言いました。
「御免下さいまし」
と縁に手をついて挨拶したその人は、裏宿《うらじゅく》の七兵衛であります。
 七兵衛のことだから、天から降ったか、地から湧いたか、屋根裏から落ちて来たか、井戸の底から安達藤三をきめこんで来たか、それがわからないところが、七兵衛の七兵衛たるゆえんかも知れない。
 主膳も、その辺は、とうに心得ているから、凧のひっかかったほどに、興味も感ずることなく、
「まあ、上れ」
 自分も再び腰を据《す》えて、時にとっての相方《あいかた》に、多少の張合いを持つことができたようです。
 例によって旅装《たびよそお》いの七兵衛は、そこへ腰をかけたなりで、煙草を吹かしながら、話がこんなことに進んで行きました、
「ねえ、神尾の殿様、近いうちに、お江戸の町が飛んでもないことになりそうでございますよ」
「どんなに」
「つまり、お江戸の町という町が、焼き払われてしまうなんていうことにならないものでもなかろうと考えられますよ」
「ばかな」
「本当でございますよ」
「江戸中を焼き払うなんて大きな火事は、近頃あんまりはや[#「はや」に傍点]らねえ――」
と主膳がうそぶいて、取合わない。
「あんまりはや[#「はや」に傍点]らないこともござんすまい、わしらが覚えても……」
 七兵衛は、煙草の吸殻をはたいて、てのひらに載《の》せながら、
「わしらが覚えてでも随分……まあ、ほぼ天保から、天保元年の暮でしたか、小伝馬町から大伝馬町、あの辺がすっかり焼けて、葺屋町《ふきやちょう》の芝居まで焼けたことがございました。それから天保五年のやつは、モット大きうございました。昼でございましたね、火元は神田佐久間町のお琴のお師匠さんの家と聞きました。あれが神田川を乗越して東神田からお玉ヶ池、東は両国矢の倉辺まで、西は今川橋から石町《こくちょう》、本町、室町まで、伝馬町の牢屋敷も、両芝居も、やっぱり残りませんでした。日本橋から 
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