さきは八丁堀、霊岸島、新川、新堀、永代際まで、築地の御門跡から海手、木挽町《こびきちょう》の芝居も、佃島《つくだじま》もすっかり焼けてしまいました。ところが中三日おいてまた昼火事で、大名小路あたりから始まって、芝口まで長さ一里、幅にして十町余というもの、なめられてしまいました。その時は死人、怪我人が沢山あったもので、御救いの小屋が、十個所へ十三棟というもの建てられたのを覚えておりまする。それから弘化二年の正月のやつがまた素敵に大きうございましたよ。これも昼火事でございましたね。火元は青山の権太原《ごんだわら》で、麻布三軒家から、広尾、白金、高輪《たかなわ》まで、百二十六カ町というものを焼き尽したんですから大したものです。死人、怪我人のほかに、海へ落ちて死んだものが沢山ありました。それと、あの時、人を驚かしたのは、あるお大名屋敷に飼ってあったという荒熊が一頭逃げ出しましてな、それに朝鮮人が押しかけて来たというような騒ぎで、あっちへ熊が出た、こっちへ鬼が出たという騒ぎで、火事よりもこの方が人を脅《おびやか》したものでございました……ところがその翌年の丙午《ひのえうま》ですな、その正月がまた大変で、これは夕方から始まりましたが、小石川片町から出まして、翌日の九時過ぎまで焼けつづき、炭町の竹河岸で止まりました。長さはおよそ一里十余町、町数にして二百九十余カ町――その次に大きかったのが昨年の……」
「もうよろしい。七兵衛、お前は田舎《いなか》にいながら、江戸の火事の焼け抜いた抜け裏まで知っているようだ」
「火事は好きだもんですから、駈け出して見る気になるんでございます。好きというのも変ですが、ついあの威勢がいいもんでございますからなあ」
「まさか、お前が、田舎から飛び出して来て、火をつけて歩いたわけじゃあるまい」
「御冗談《ごじょうだん》でしょう……」
「それに七兵衛、お前は、年代記に載っている火事を心得ているのみならず、これから焼けようという火事まで知っているのか」
「へへへへ……そこでございますよ。その通り、七兵衛に限って、これから起ろうとする火事まで、ちゃあんと心得ているのみならず、その火元まで突留めて来てあるんでございます」
「ははあ、まだ焼けない火事の火元まで、お前は知っているんだな」
「よく存じております」
「そりゃあ、どこだい。知っているなら人助けのために、江戸中へ先触れをして歩いたらどんなものだ」
「おっしゃる通り江戸中へ、その先触れをして歩くつもりでございますが、その封切に、こうして殿様のところへ上りました」
 七兵衛が、どこまでも真面《まがお》だものですから、主膳も、いよいよ笑止《しょうし》がって、
「そうして、その火元というのはどこなのだ」
「ええ、それは芝の三田の四国町の薩摩屋敷なんでございます」
「ははあ……」
「あすこが、どうしても、近いうちに起る江戸中焼払いの火元になりそうなんでございます」
「ふーん。そうして、その放《つ》ける奴は誰だい。焼けない先の火事がわかるくらいなら、その放け火をやる奴も、あらかじめわかっていそうなものだ」
「それも大抵、わかっています」
「ははあ、犯罪の無い先に、犯人の目星がついたんだから、奇妙だ。ところでその犯人は七兵衛、お前じゃあるまいな、まさかお前が薩摩屋敷から始めて、江戸中へ火をつけて歩こうというんじゃあるまいな」
「どう致しまして、わっしどもには、そんなエライ仕事ができません。できたところで、お江戸の町に対して、それほどの恨みがございませんもの」
「して、その放火《ひつけ》は誰だ」
「それは西郷吉之助というお方でございますよ」
「西郷……どこ[#「どこ」に傍点]の奴だ」
「薩州藩の豪傑でございます、それが、あなた、みんな糸をひいては江戸の市中を今のように騒がせ、追っては江戸の市中を焼き払おうと企《たくら》んでいる親玉でございますね、薩摩の西郷というのが……」
「怪《け》しからん」
 神尾主膳にもまた、多少は、時勢に憤るの気概があるのかも知れません。
「あんまり、西郷西郷って、人が騒ぐもんですから、いったい、西郷って、どんな人間だかひとつ見ておいてやろうって、こう思いましたもんですから、一日あとをつけてみましたんでございます」
「お前が、その西郷という男のあとをつけてみたのかい」
「左様でございます、ただ、薩摩の人が西郷西郷っていうばかりじゃございません。ドコへ行っても、誰に聞いても、西郷はエライ、西郷は大きい、西郷は英雄豪傑だと、西郷の独《ひと》り舞台のようにばっかりいうものですから、今度はひとつ、その西郷どんというのを見てやりたいと思いました」
「どんな奴だ」
「そりゃ、わっしどもが見ても、たしかに凡人じゃございません」
「そうか、ふかし立て[#「ふかし立て」に傍点]の
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