クル水を汲んでたて直す体《てい》を見て、神尾主膳がカラカラと笑いました。
 多分、この無邪気にして、爽快な、空中の彩色を見て、自分というものの少年時代を想い浮べたのでしょう。
 凧の糸目をつけるはなかなかコツのあるもので、子供でも、器用な奴と、無器用な奴のすることには、天と地ほどの相違がある。つまり、器用の奴のやるのは、天上に舞いのぼるが、無器用の糸目をつけた凧は、逆立《さかだ》ちをして地上をかける。そうして自分はというと、憚《はばか》りながら、子供の時分から凧の糸目をつけるのは上手だった。自然、凧揚げも下手ではなかった。凧の喧嘩には、いつも勝って、相手のやつを吹っ飛ばしてやったものだ。
 そうだなあ、もう、こんなに凧が流行《はや》ってもいい時分だ――と主膳が、そんな空想に駆《か》られている間、不幸なのは木蓮の枝にひっかかった巴御前で、外では相変らずグイグイと力を極めたり、ゆるめたり、百方苦心して、引き取ろうとするが、いよいよ取れないで、木の枝にいよいよからみつく。それを主膳は、だまって見ているうちに、垣の外でワッと大声に泣き出す声が聞えました。
 その時、どこをどうしたものか、三人ばかりの真黒い男の子が、怖々《こわごわ》と垣の外から庭の植込の中へ入り込んで来たのを、主膳が認めました。
 しかし、なお、黙って、そのせん[#「せん」に傍点]様を見ていると、いずれもはなったらしであります。この辺の町家か、百姓のせがれと覚しく、あんまり身分ありそうな子供でもないが、それでも無断で、人の屋敷へ入り込んで来た遠慮心から、済まないような目つきと、足どりで、こちらへ進んで来るのを主膳は認めたけれども、子供は気がつかないで、
「有った、有った、あら、あの桜の木の下の木蓮の枝にひっかかってやがら」
「ああ、有った、有った」
 そこで彼等は、遠慮心も、好奇心も打忘れて、バラバラと例の木蓮の枝のところまで走《は》せ寄ったが、そのうちの一人が、その瞬間に神尾の姿を見て、
「あっ!」
と言って舌をまいて踏みとどまったが、二人は気がつかないものだから、遮二無二《しゃにむに》、木蓮の枝にしがみついて、木の撓《たわ》むのも、枝の折れるのも頓着なく、凧を引っぱずしにかかるものだから、神尾主膳が、
「コラッ」
と強く言いました。
 この声で二人の子供が木から落ち重なって、主膳の眼の前に、へたへたに手をついてしまいまして、
「御免なさい、御免なさい」
 あるじの何者であるかは知らないが、自分たちに、無断侵入の引け目のあることは、充分に自覚しているし、それを叱った人の声こそ大きくないが、姿を見れば立派なお武家と見えるのに、その怖ろしい顔――素《す》では特別に怖ろしい顔ではないが、その生れもつかぬ三眼《みつめ》が承知しない。
 そこで彼等三人の子供は、即座にお手討にでもなってしまうかの如く恐怖して、へたへたにかしこまって、申し合わせたように頭を下げてしまいました。
 しかし、このとき神尾は、また特別にこの子供らに対して、怒りを移すべき事情を持っていなかったのですから、そう烈しい言葉で叱ったわけではありません。
「お前たち、だまって人の屋敷へ入り込んではいけないじゃないか」
「御免なさい」
「どこから入ってきた」
「あそこから入って来ました」
「あんなところに、お前たちの入れるようなところは無いはずだ」
「三ちゃんちから梯子《はしご》を借りて来て、かけて入りました」
「梯子をかけて、人の屋敷へ入ったって? お前たち、今からそんなことを覚えると、いまに大泥棒になってしまうぞ」
 主膳は真顔で言いましたが、七兵衛でも聞いていた日には、さだめてくすぐったいことでしょう。
「御免なさい」
「人の屋敷へ入る時には、一応ことわって、許しを受けてからでなけりゃいかんぞ」
「もう、これきりしませんから、御免なさいまし」
「よし、そうしてお前たち、むやみにそうひっぱったって、凧《たこ》は取れるもんじゃない、そう無茶にひっぱれば、凧が取れないのみならず、凧が破れる、凧が破れるのみならず、肝腎《かんじん》の植木が台なしになってしまう」
「御免下さい、もうしませんから」
「よし、わしが取ってやる」
 主膳は、立って、縁へ出で、庭下駄をはいて下り立ち、上手に木を撓《たわ》めて、丹念に、糸と、糸目とを小枝から外《はず》して、
「さあ、取れた。お前たち、糸をその辺のいいところで切れ」
「おじさん、有難う」
 子供らは、おじぎもそこそこ、その凧を持って、丸くなって、逃げるように引上げて行く後ろ姿を、神尾主膳は飽かずに見送っておりました。

         十九

 主膳が、これからひとつ、子供を相手にして遊んでやろうという気になったのは、この時にはじまるのであります。
 これは、主膳にとって善心のゆ
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