と、感情と、文字とを崩さないところだけは取柄《とりえ》でしょう」
「ひとつ、あなたの詩吟をお聞かせ下さい、ここで……幸い、その胡笳の詩を最後までおうたい下さい」
「やってみましょうか」
そこで駒井がこころもち先に立ち、白雲が少しおくれて歩きながら、御所望の詩吟にとりかかろうとして、
「では、まず、淡窓流《たんそうりゅう》で一つやってみることにしましょう」
「お待ちなさい、淡窓流というのは何です」
「ははあ、それは詩吟の一つの流儀です。御承知でしょう、九州の広瀬淡窓によって起された調子なのです」
「なるほど」
「唐音のことは暫くここに論ぜず、朗詠のことも暫く置き、ちかごろでは、この淡窓流と、それから、もう一つはそれと相対して山陽流というのが、書生の間に行われます」
「そうですか」
「その間に、肥後に起って面白い一つの吟じ方がありますが、まあ近ごろ流行の吟声としては、淡窓流と、山陽流と、二つでしょう。どちらも特徴があって、さながら、淡窓と、山陽との、性格を現わしているようです。淡窓を呂《りょ》の黄鐘《こうしょう》とすれば、山陽のは律《りつ》でしょう。一《いつ》は温雅にして沈痛、一は慷慨にして激越とでも言いましょうか。では、ひとつその淡窓流をまねてやってみます」
と前置をして、田山白雲は朗々たる音吐《おんと》で、次の詩を吟じ出しました。
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君聞かずや胡笳《こか》の声最も悲しきを
紫髯緑眼《しぜんりよくがん》の胡人吹く
これを吹いて一曲なほ未だ終らざるに
愁殺す楼蘭征戍《ろうらんせいじゆ》の児
涼秋八月|蕭関《せうかん》の道
北風吹き断つ天山の草
崑崙山《こんろんさん》の南、月斜めならんと欲す
胡人月に向うて胡笳を吹く
胡歌の怨《うら》みまさに君を送らんとす
泰山遥かに望む隴山《ろうざん》の雲
辺城夜々愁夢多し
月に向うて胡笳誰か喜び聞かん
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「なるほど――」
それを聞いた駒井は、多少の感動を面《おもて》にあらわして、
「温雅にして沈痛、というよりも、沈痛にして温雅と、後先をかえて言った方がいいようです――」
「淡窓は、これを吟ずる時に、独流の鼓《つづみ》――鼓といっていいかどうか、太い竹の筒に紙をはったものを肩にして、鼓を打つように、おもむろにそれを打ち鳴らしながら、ゆったりと吟じたそうです。淡窓の方針では、詩を吟ずることを教育の上に応用して、塾生の士風を涵養《かんよう》するにこれを用いたものです――朗詠が多く入っています。詩吟を教育に応用するというのは、非常にいいことだと思います。人生に音楽がなければ、その人生は唖《おし》です、教育に音楽がなければ、その教育は聾《つんぼ》です。宗教と、音楽とは、全く離すことができません――孔夫子ですらも、楽《がく》を六芸《りくげい》の一つに加えているのに、今の儒者共で、孔夫子のいわゆる楽を心得た奴が幾人ありますか……それはそれとして、今度はひとつ、その山陽流をやってみましょう。それは同じく胡笳の歌をえらぶよりは、山陽自身の詩によって試みた方が、よくうつるかも知れません――先生の『筑後河』をひとつ、その調で吟じてみます」
といって田山白雲は、以前のとは全然、調子をかえた吟じ方で、
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文政の元《げん》、十一月
われ筑水を下らんとして舟筏《しうばつ》をやとふ
水流|箭《や》の如く万雷ほゆ……
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田山白雲が、ようやく筑水の詩をうたいはじめた途端に、向うの方で、突拍子《とっぴょうし》もない声で、
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どんちゃ、どちどち
どんちんかん
みょうちゃがろくすん
とうらい、みょうらい
きうす、きうす
さんでん、しんでん
こんにゃか、ぶうくぶっく
は、きくらい、きくらい
きうす……
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これはもとより何の意味だかわからないが、清澄の茂太郎が近づいて来たことがわかります。
白雲の詩吟が、これで、すっかり打ちこわされてしまいました。
留守にあっては、この時分になって、ようやくマドロス氏も、多年の眠りからさめました。
醒《さ》めて、そうして、まだ醒めきらぬ酔眼をとろりとさせて、室内を見廻すと、誰もいないが、さながら自身のためにしてくれたもののように、カンカンと燭光《しょっこう》はかがやいているし、炉炭も適当に加わって、寝ざめの具合が、いかにも快適なものですから、納まり返って、
「モッシュウ、モッシュウ」
と意味不分明なる呼び名をしてみましたが、誰も来るものがありません。
かなり時も経《た》ったろうが、さあ今晩はどこへ寝かしてくれるのだろう。あんまり静かだ。快適もいいが、こうなってみると、なんだか置いてけぼりにされたような気持もしないではない。そこで再び、
「モッシュウ、モッ
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