きりにながめています。度《ど》すべからざるはウスノロ改めマドロス氏で、今以ていぎたない酔睡《よいね》から覚めやらず、長椅子にフンゾリ返った無遠慮千万の行状です。
駒井は壁にかけたマントを取って、田山白雲の肩に打ちかけました。
白雲は、それを引纏《ひきまと》うて身がまえをするのは、多分、これから茂太郎と兵部の娘の行方を探すべく、出で立つの用意と見えます。駒井はと見れば、かれは一旦、研究室の方へ引返して、それは少し短いマントを引っかけて、鞭《むち》を持って来ました。
田山白雲が、和服の上にマントで、中には脇差を一本差して、無雑作に草履《ぞうり》を突っかけた時に、駒井甚三郎は、長靴をはきはじめました。その長靴をはくことが多少手間取るものですから、田山は、さっさと海辺へ向けて歩き出しました。
かくて、この二人もまた夜の海岸を歩み出したのは、前の二人とは違い、半ば散歩のような気持に見えましたが、これでも、たしかに相当の憂心を、二人の即興者の身の上にかけていることには違いありません。
行き行きて、竜燈の松のところに来ると、田山白雲が、ふと歩みをとどめて、耳をすまし、
「ああ、大丈夫です――蘆管《ろかん》が聞えていますよ」
駒井甚三郎もまた、歩みをとどめて、
「蘆管とは何ですか」
「お聞きなさい、亮々《りょうりょう》として、笛に似て、笛でない響きが、海の上から聞えましょう、あれは茂太郎が、蘆管を吹いているのです」
「なるほど――」
耳を傾けて、海表を渡り来《きた》る管笛《かんてき》の音を納得した駒井甚三郎は、
「最初は千鳥かと思いました」
「遠くなり近くなるみの浜千鳥、啼《な》く音に潮の満干《みちひ》をぞ知る……といったものです。お聞きなさい、今は全く音調が変りました」
「なるほど――」
「あれは遼東九月の歌です」
「遼東九月の歌とは……」
「かりに拙者が名をつけて吹かせてみたものです。唐の岑参《しんしん》の歌、遼東九月蘆葉断つ、遼東の小児蘆管を採る……あの心を取って吹かせてみると、どうやらものにはなりました」
「ははあ」
「あの子供はあれで一種の革命家ですね、音を出すと、おのずから節調をなすところが不可思議です。あの子供の歌を聞いていると、でたらめが韻《いん》を踏んで、散文が直ちに詩になって響くのが妙です。普通、詩歌というものは、内容があって後に形式が生ずるので、たとえば、歌わんとする思想があって、それが十七文字になり、三十一文字《みそひともじ》なりに現われたり、感情があって、しかして後に平仄《ひょうそく》の文字が使用されるのだが、あの子供のは全然それが逆に行っています。つまり、思想と、感情と、文字が、節調を作るのではなく、節調が、思想と、感情と、文字とを駆使《くし》するのですから、まさに詩歌の革命です。ところが、あの子供はその重大な革命を、無邪気な放漫を以て、尋常一様の遊戯として取扱っているところが奇妙でたまりません」
「なるほど――」
「まあ、今度、ひとつある機会に、それとなく、あの子供のでたらめの歌を聞いていてごらんなさい、そうでなければ、管笛を弄《もてあそ》ぶところを隙見をしていてごらんなさい、節調が――音律が、言語と、文字と、思想とを、縦横に駆使する離れ業《わざ》を、当人自身に悟られないようにして、聞いてみてごらんなさい、とてもめざましいものですよ」
「音律のことは、それがしには、よくわからないのですが……」
といって駒井は、やはりその蘆管というものには、耳をすますことを忘れないで、
「その蘆管というのは、ただの笛ですか」
「蘆《あし》の幹を取って、それを一節切《ひとよぎり》のようにこしらえてみたのです。最初あの子供が、穴を三つだけ明《あ》けて、しきりに工夫しているようですから、拙者が寄って五つにさせました。いわば二人の合作の新楽器ですから、支那のいわゆる蘆管――遼東の小児の弄《もてあそ》ぶそれとは違っているかも知れません」
「胡笳《こか》というのとは、違いますか」
「それは違いましょう、笳というのは、ヒチリキの異名だそうですが、胡笳というのは、いかなる笛かよく知りませんが、蒼涼《そうりょう》たる原始的の響きがあるものとは想像されます――君聞かずや胡笳の声最も悲しきを、紫髯緑眼《しぜんりょくがん》の胡人吹く、これを吹いてなお未だ終らざるに、愁殺す楼蘭征戍《ろうらんせいじゅ》の児……」
と田山白雲が吟声に落ちて行くところは、御当人が茂太郎を笑いながら、御当人自身も、茂太郎にかぶれたところがあるようにも思われる。それを駒井が、どちらにも注意を払いながら、
「あなたは詩吟が上手ですね」
「上手といわれては恐縮しますが、口癖のようなもので、やっぱりでたらめです、でたらめとは言いながら、茂太郎に比べると、節調はまずいが、思想
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