茂ちゃん、もう、およし、ホラ、こんなに鳥が集まって来たわ」
「みんな千鳥なのよ」
 ここに於て知る、つまり、千鳥の笛といったのは、風流千鳥の曲というようなものではなく、千鳥の啼《な》く音そのものを模していたのです。それが真に迫ったから、かれらの夜のねぐらを驚かして、海上を物騒がしいものにし、そうして、ここまでおびき寄せられて来たものに相違ない。これは茂太郎の技術として、今にはじまったことではないのだが、せっかく呼び寄せられた小動物は、火事もないのに半鐘を打たれたような気持で、まだ火元と覚しいところを離れきれないで騒いでいるらしいのを、兵部の娘が気の毒に思ったのでしょう。
「折角、呼び集めて、何かやらなくちゃかわいそうだわ」
 しかし、ここには何も彼等に与うべきものがない。
「峰島の爺さんが言うには、千鳥は、あれで三十幾通りかあるんだって。その三十幾通りあるのが、みんな啼く音が違っていると言いますが、あたしには、そのうちの半分しか吹けやしない。習えば吹けるでしょうけれど、習おうとは思わないの。峰島の爺さんは、その三十幾通りをみんな吹きわけるには吹きわけるけれど、あれは罪なのよ」
「罪とは?」
「だって、あの爺さんは、千鳥の笛を吹いて、千鳥を呼び寄せて、それをみんな網でとってしまうんですからね」
「そんなに千鳥をつかまえて、どうするの」
「食べてしまうんでしょう、自分で食べるだけじゃなく、売りに出すのでしょう」
「千鳥の肉なんて、食べられるか知ら」
「食べられますとも。爺さんの話では、田鴫《たしぎ》よりは少し味が劣《おと》るけれど、あの鳥は丈夫な鳥だから、それにあやかりたいために、あれを食べると丈夫になるって、千鳥を食べるんですとさ」
「そうか知ら。千鳥の肉を食べると丈夫になるなんて、はじめて聞いた」
「でも、鳩や、雉《きじ》なんぞは、土用中、おとり[#「おとり」に傍点]にして一時間も置くと死んでしまうけれど、千鳥だけは、土用中でも、寒《かん》のうちでも、何時間おいてもビクともしないそうです――しかし、わたしたちはこの鳥を呼び集めたって、それを捕って食おうというのじゃなく、友達として呼び迎えるのだから、罪にはならないさ」
 兵部の娘と、茂太郎が、浜辺へ向って歩き出すと、千鳥は、その前後左右を落花飛葉のように飛びめぐって送ります。

         十七

 駒井甚三郎と、田山白雲とは、種《しゅ》の問題にまで会話が進んだ時に、金椎《キンツイ》のために腰を折られました。
 しかし、駒井は「種」ということには相当の見識は持っているらしい。今までの会話では、田山の方がむしろ現実的で、駒井が有史以前の動物にまで想像を逞《たくま》しうしたようですけれど、駒井が、ああ言うからには、何か相当の科学的――といわないまでも、新しい知識に刺戟されたには相違ありますまい。
 ただ惜しいところで、話の腰を折られてしまいました。
 そうかといって、リンネよりキウエーにいたる種の不変の説を、この時代の駒井が、どれほど理解していたかは疑問です。いわんや、金椎によって、ようやくこのごろキリスト教の眼をあけられた駒井が、生物進化論にまで飛躍しているとは、全く想像し難いことであります。ダーウィンが「種の起源」の初版を出したのは、ここに駒井がこうしている数年前のことではありましたけれど、いかに新知識でも、当時の日本人としては、それを受入れるにはあまりに早過ぎます。しかし、早過ぎるからといって、当時、出来ていた「種の起源」の新説が、何かの機会で、たとえば、鉄砲の包紙の一片か何かにはさまって来て、偶然に、駒井の眼に触れないとも限りますまい。
 しかし、この場の事実は、如上の進化論の途中に、突変説が起りました。
 話の進化に突変をまき起したのがすなわち金椎であります。それをまき起させた「種」は、清澄の茂太郎と、兵部の娘とであること勿論です。
 二人の者が行方不明《ゆくえふめい》になって、今以て帰らないということが、物に動ぜぬ金椎を、安からぬ色に導いているということによって、二人も、これは打捨てて置けないと立ち上りました。
「あの連中ときては、常軌《じょうき》にあてはまらないのだから始末にゆかぬ、即興的の感情を、即興的の行動に現わして、節制の術《すべ》を知らないんだからたまらない、全く眼がはなせたものではない」
と田山白雲が、柄《がら》になく嘆息しました。全く柄にないことで、そういえば御当人自身としても、御多分には洩れないところがあるはずです。
「怪我はあるまいけれども、放っても置けまい」
と駒井も、多少の不安を感じないわけにはゆかないらしい。ただいまの海竜といい、この辺の海の悪戯《いたずら》には、再再経験もあることだ。
 金椎《キンツイ》は同じような不安から、窓の外の海をし
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