く金椎《キンツイ》が紙を持って来て、二人の前に提示しました。それを読むと、
「茂チャン帰リマセン、ミドリサンモドコカヘ行ッテシマイマシタ」
十六
清澄の茂太郎が、ふと蘆笛《ろてき》の吹奏をやめて、黍畑《きびばたけ》のあなたを見やった時、せっかく、首をふりかけた表情のない動物が、愕然《がくぜん》として恍惚《こうこつ》から醒《さ》めて、のどを鳴らしはじめました。そこで、黍畑のあたりを見ながら、例の卒塔婆《そとば》を折りくべて、茂太郎は反芻《はんすう》の歌をうたい出しました。
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神のことごと
つがの木の
いやつぎつぎに
天《あめ》の下《した》
知ろし召ししを
空にみつ
大和《やまと》を置きて
青丹《あをに》よし
奈良山《ならやま》越えて
いかさまに
思ほしめせか
天離《あまさか》る
鄙《ひな》にはあれど
石走《いはばし》る……
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ここでは中音《ちゅうおん》で歌いました。
これは、お雪ちゃんからの伝授であろうと思われます。今まで、いつどこで、茂太郎が万葉集を習ったということを聞きませんから、月見寺にいる時にこそ、お雪ちゃんの口ずさみを聞きなれて、聞きよう、聞きまねに、口をついてほとばしるものでありましょう。
「茂ちゃん、茂ちゃん」
不意にその黍畑《きびばたけ》の方から、名前を連呼しながら飛び出して来たのは、兵部の娘です。
「お嬢さんかエ」
「あい、お前、そこで何をしていたの」
「笛を吹いていましたよ」
「誰にことわって、こんなところへ来てしまったの」
「つい、あるきたくなったもんだから」
「帰る気はないの?」
「だって、着物が乾かないんですもの」
「どうして、着物を濡らしたの」
「海へ、落ちたから」
「海へ落ちた? そうして、海竜《うみりゅう》が出たっていうのを知っている?」
「知らない」
「海竜が出たって、今、逃げて行った人がありますよ」
「あたしは知らないのよ」
「みんな心配するといけないからわたしと一緒にお帰り」
「お嬢さん、なんだか、あたいは、どこへも帰りたくなくなった」
「どうして」
「でも、なんだか、淋しくってたまらないもの」
「淋しければ、一層、お前、大勢の中へ帰ればいいじゃないか」
「それでも……弁信さんがいないもの」
「茂ちゃん、お前はよく弁信さん、弁信さん、て言うけれど、そんなに弁信さんていう人がいい人なの」
「いい人というわけじゃないけれど、さぞ、あたしを尋ねていることだろうと思うと、あたしも、あの人に逢いたくってたまらないのよ」
「駒井の殿様もいらっしゃるし、白雲先生もおいでになるし、金椎《キンツイ》さんだって悪い子じゃなし、それに、わたしというものもいるのに、それだのになお、お前は、弁信さんという人が、そんなに好きで、みんなをあとにしても、それでも弁信さんに逢いたいの、それほど、弁信さんという人はいい人なの?」
「どうかして、ここへ、弁信さんを呼んで来ることはできないか知ら」
「ところさえわかれば、できないことはないでしょう」
「それがわからないのです。さっきは、富士山の後ろの方から面《かお》を出したから、たしか、あの辺にいるのかも知れません」
「富士山の後ろって、お前……そんなお前、広いことを言っても、わかりゃしないじゃないの」
「ああ、弁信さんに羽が生えて、この海を渡って、飛んで来てくれるといいなあ」
「弁信さんて、そんなにいい人なの、憎らしい、弁信坊主――」
といって兵部の娘は、海を隔《へだ》てて罪もない富士山を睨《にら》みました。
「お嬢さん、千鳥の笛を吹いてみましょうか、千鳥の笛をね」
茂太郎は、兵部の娘のひがみをよそにして、蘆管《ろかん》を火にかざしてあぶり、おもむろに唇頭へあてがって、
「まず大雀《おおじゃく》を吹いてみましょうか」
千鳥を吹くというから、「しおの山」でも吹くのかと思うと、そうではなく、単調な、物悲しい、尻上りになって内へ引込む連音を吹いて、
「次は中雀《ちゅうじゃく》」
これもほぼ同じような、単調な連音。
「今度は黄足《きあし》ですよ」
これは、以前のよりは、ズッと音が高くて強い、けれども、やはり特別の節調があるというわけではなく、誰が聞いてもヒューエヒューエと続けさまに鳴るだけのものです。
音はそれだけのものですが、不思議なことには、この笛が鳴りはじめてから、海上が少しずつ物騒がしくなってきました。前の大雀というのを吹き終った頃に、墓石の上あたりを低く、いくつもの小鳥が群がって来ました。
中雀を吹き出してから、それが一層多くなって、ほとほと、茂太郎と、兵部の娘の身辺にまで、まつわるかのように見えましたが、黄足というのを吹いた時分には、あるものは茂太郎の肩の上まで来てとまろうとしました。
「
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