同様の不審が晴れないので、
「海竜というやつは何ですか」
「それがわからないのだ。角があると言いましたね、鯨ではない。鯱《しゃち》、鮫《さめ》でもあるまい。鮪《まぐろ》でもなかろう――はて」
 駒井も首をひねってしまいました。そこで白雲も、
「しかし、あの海を畳同様に心得ている奴等が、ああやってオゾケをふるうのだから、全く跡形《あとかた》のないことでもあるまい。何か怪しいものか、見慣れないものが、この浦に漂いついているかも知れぬ。われわれにしてからが、ジャガタラ薯《いも》そのものに、すっかりおどかされちゃってるんだから。ことによると、外国の船でもやって来たかな」
 駒井がいう――
「船なら船で、あの連中にも理解があるだろう、海竜はわからない。鮫の一種の剣鮫《けんざめ》というのがあるが、これは三四尺のもので問題にならぬ。刺鮫《はりざめ》というのは相当に大きな奴で、夜、海の中を行くと、白い光が潮に透《とお》って見える、こいつは舟をくつがえしたり、人を食ったりする怖るべき奴で、舟乗りはこいつにでっくわすと鰹《かつお》を投げてやって逃げるのだが、この刺鮫も頭に角のあるというのを聞かない――一角魚《うにこうる》の角は角というよりは嘴《くちばし》だ。竜駒、海蛇、有るには有るが問題にならぬ」
 駒井甚三郎は、漁師らのいわゆる「海竜」なるものを、まじめに、つまり科学的に考証してみようと苦心しているが、田山白雲はさのみは追究せずに、
「疑心暗鬼でしょう、幽霊の正体見たりなんとかで、つまり、何か彼等が見あやまって、それを一途《いちず》に恐怖の偶像にしてしまったんですね――追究してみれば、存外くだらないことなんだろう」
「しかし……」
と駒井は、相変らずまじめに考えているのは、よしそのことが暗鬼であるにしても、偶像であるにしても、その暗鬼を映し出した偶像を、浮び上らせた本体というものに、その出来事とは全く離れた水産上の想像を打ちすてておくわけにゆかなかったからです。何となれば、いかに疑心といえども、狼狽といえども、鰯《いわし》を鯨と見るはずはないからであります。
 海竜として、かれらが怖るべきものを見たとすれば、よし全然間違いであったとしても、多少形体において、それに似通《にかよ》った存在物を見たものとしなければならぬ。かれらが疑心をもって、海竜にコジつけたその本体は何物だかということが、今、駒井の研究心を刺激していると思われるのに引きかえて、田山白雲は放胆に、
「実際、この辺の海には竜というものがいるのかも知れん、馬琴の八犬伝のはじめの方に、素敵な竜の講釈が出ている、あれによると、竜というものにも、かなりの種類があることを教えられる――」
「有史以前にはねえ……」
 八犬伝の竜説は一向、駒井の念頭にはないと見えて、ほかの方に話材を持って行き、
「有史以前には、竜のようなものがあったかも知れない――この間、支那の書物で『恐竜』という文字を見たが、あれは支那本来の文字ではないらしい。事実、この人類以前の世界には、竜に似た百尺程度の大きな動物が地上にのたうち廻っていたように、西洋の本には書いてあるのだが、そういう時代の想像が、人間の頭のどこかに残っていて、そうして、竜という不可思議な動物をこしらえ上げたのかも知れない。人間の想像し得るかぎりのものには、大抵、事実上の根拠があるのだから」
「といって、人間の存在しなかった時分の存在を、どうして人間の頭で想像がつきます、生れぬ先の父ぞ恋しき、というわけでもなかろうに」
「いや、人間は存在しなくとも、人間の胚子《はいし》、或いは精虫といったようなものは存在していたに相違ない。それが先天的の印象で、人間の形になるまで残っていて、想像が働き出した時には、生れぬ先の父でもなんでも、形に表現してみることになるのじゃないか知らん。事実、人間が想像だの、空想だの、不可思議がるものは、みな前世界の実見の表現ではないかしらと、このごろは、そう思わせられることが多い」
「そうしてみると、その前世界とか、有史以前とかいう時に生きていた不可思議な動物というのが、今日、生きていないのはどうしたのです」
「それは種が切れたのだな」
「種が……」
「今日、想像だけに上って、実際に見ることのできぬものは、すでに、その種族が絶滅してしまったのだ」
「ははあ、種切れになったのですか。してみると今日、われわれのように、人間の形をとって生きている生物も、次の世界には、種切れになってしまうと見なければならん」
「左様、この地球――この地上が、地上として今日のように固まるまでには、幾多の生物が現われて蕃殖《はんしょく》したかと思うと、それが全く種切れになって、次の時代に移り……」
 駒井甚三郎が竜の疑惑から、種《しゅ》の問題に進んで行く時、あわただし
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