その通り、それに違いありません。つまり海を耕すことですな、陸地を耕して穀物を得るように、海を開墾して魚介をあげる、なるほど、これはまだ日本人が充分に着眼していない問題のようです……一番絵筆をなげうって、漁業家になろうか知ら」
「やって御覧なさい、陸を耕すも、海を耕すも、同じことですよ。たとえばです、今われわれが食べたあのジャガタラ芋《いも》、あれも海外から来たものですが、ようやく日本のものになりそうです。サツマイモはもう、日本の本来の国産でもあるかの如く流行して来ました、それと同じように、海の魚でも……海といわず、川でも、湖でも同じですが、甲に無かったものを、乙に移すこともできるし、異種類と異種類とを組み合わせて、変った風味の魚肉を賞玩《しょうがん》することもできましょう。たとえば鯉という魚は、アジア洲に限ったものでしたが、十字戦争の時に、オースタリーという国の手で、アジアからヨーロッパへ運ばれました。鱒《ます》の種類で、虹鱒《にじます》というのが、育ちが早くて旨《うま》いというので、諸国の人が、アメリカからそれを移したがっているから、追々こっちへ来るかも知れない――といったようなもので、或いは海の魚を河へ移すことができるようになるかも知れぬ、この海に無い魚類を、かの海から取って繁殖せしめることもできるようになるかも知れぬ。その点からいうと、魚類に富む日本の将来は有望で、浦安の国という名が当っているようです、世界の魚の卸問屋になれるかも知れません」
「なるほど、お説の通りです。なにしろ、日本は周囲がみな海ですからね、魚類において恵まれているのは当然で、それを利用することを忘れては、天地の化育にそむくというものでしょう。ところで、その日本にすむ魚は、何種類ありましたっけね」
「おおよそ二千種、そうして、その半ば以上は食べられます」
「二千種類、非常なものですね、我々の粉本の中に納められているものは……何種あったか、ちょっと忘れたが、九牛の一毛だ」
 その時、夜の外の窓口に、あわただしい人声があって、
「番所の先生、先生――大変でございます、塔婆《とうば》の浜へ海竜《うみりゅう》が出ました」
「海竜!」
「はい、海竜が出ました、角《つの》を二本|生《は》やした、こんな怖い顔をして、お杉のあまっこ[#「あまっこ」に傍点]を追っかけて来たのを、命からがらで逃げて来やんした」
 窓の外は、けんけんごうごうとして、潮《うしお》のわくような騒ぎであります。
 駒井甚三郎も、田山白雲も、そのあまりな仰々しさに、立って窓を開いて見ると、漁師ども十数名、中に裸体で着物をかかえた海女を一人とりかこみ、いずれも恐怖と、狼狽《ろうばい》の色を、面《おもて》に漲《みなぎ》らしている。
「どうしたのだ」
「海竜が出ましたよ、海竜が」
「海竜とは何だ」
「角を二本生やした海竜が、おっかない面《かお》をして、海を泳いで、このあま[#「あま」に傍点]を追っかけて来やんして、すんでのことに……」
「いったい、海竜というのは何だい」
 駒井が、あまりの仰々しさに、漁師どもに問い返すと、
「海竜に逢っちゃたまりませんや、御用心なさるこってすよ、いつどこへ出て来るか知れやしません、今夜は寝られませんよ、夜っぴて寝ずの番です。明朝になったら、先生、退治しておくんなさいまし、あの大筒《おおづつ》でもって。いかな海竜だって、大筒にゃかなわねえや」
 海竜とは何物だ、ということには返答しないで、ただその海竜の恐るべきことだけを説いている。
 そこで、駒井は考えました。この連中が海竜といったのは、鯨のことでもありはしないか。何かの間違いで鯨がこの浦へ流れついたのでも見て、そうして海竜、海竜とさわいでいるのかも知れない。そこで駒井は、再び念を押してみました。
「君たちが海竜というのは、鯨のことでもあるのかい」
「いいえ、どう致しまして、鯨ならば殿様、逃げるどころじゃござんせん、鯨ならばいいお客様ですよ――鯨なら浦が総出で、とっつかまえてしまいます、海竜に逢っちゃかないません……」
 海の最大の生物よりも、恐るべき海竜というものの襲来が、どうしても駒井にはのみこめないでいると、
「どうか殿様、御用心なさいまし、当分は、どなたも、外へお出しにならねえのがようございますよ、そのうちなんとかなりましょう、ほんとうにお気をつけなすっておくんなさいまし」
 彼等は喧々囂々《けんけんごうごう》として、これだけのことを報告に来たものらしい。大筒《おおづつ》で退治してくれというようなことは、思いつきの、お座なりの希望で、とにかく、この近海へ、異様な怪物が現われたから充分の御注意あってしかるべし、ということを、親切気を以て報告に来てくれたことは疑いないのであります。彼等が行ってしまったあと、田山白雲も
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