とんど人間が住めないかというにそうではなく、欧羅巴《ヨーロッパ》で、ベルリンとか、ロンドンとかいう、世界で一二を争う大きな都は、みんなその北緯五十度よりは北にあるのですが、人間が住めないどころか、今までに人間のこしらえた最高の文化の花が、その辺で咲いているというわけです。それはどういうわけかというに、海の潮の関係ですよ。つまり、海の中にもまた、大きな潮流の流れがあって、その流れに寒暖の二つがある、暖流の流れに沿うている地方は、緯度は遠くともかえってあたたかに、寒流の流れを浴びているところは、緯度は近くとも、気候が寒いというわけです。ですから人間の文明というものは、地理によって支配されるのでなく、潮流によって支配されるのだと言いたいくらいです。それで、海のことは大事です。海は海の領分として大事なのみならず、人間の文化の歴史の上に大事です。しかしながら、人間の力もまた軽蔑したものではありません、人間の力がまたこの潮流を支配することがあるのです――人間が、まだ未開の海に航路をこしらえて、船の通行を盛んにすると、暖流がそれについて来て、その土地の気候を一変させるという事実が、たしかにあるのです……その原因はまだ研究中ですが、これらによって見ると、立派に人間が自然を征服し得ると言えるかも知れません」
「なるほど」
「その点において、日本は恵まれています、海に恵まれている点では、世界に、日本ほどの国はなかろう、と言ってもよいでしょう。今いう、その暖流と、寒流とが……国が充分に細長くて、四面がみな海ですから……そこに、二つの潮流がこう入り交っているから、魚類の豊富なことは無類です。たとえば鰊《にしん》、これは北のものです。鱈《たら》とか、鰊とかいうものは、欧羅巴《ヨーロッパ》でも北の方で捕れる魚ですが、それが日本では、この本州と、朝鮮にかけて、ちょうど、北緯三十六度あたりで捕れるようになっているのは寒流のためです。それから欧羅巴でも南欧のものとなっている鮪《まぐろ》が、日本の北海道の……蝦夷《えぞ》の東の海岸でとれるのは暖流のためです。そういうわけですから、日本の領海のうちで捕れる魚類は、二千種類もあって、その大半が食物とされているのに、西洋で食用につかう魚類といっては、三十種ぐらいなものでしょう。日本はこの海の富を、大いに利用しなければなりません」
「なるほど」
田山はしきりに大きくうなずきました。自分の得意の問題には、泡を飛ばして気焔を吐くが、自分の至らざる知識については、極めて神妙に人の説を聞いているのがこの男の性質です。そうして、特に海の問題について、駒井の知識をたたくと、それが田山には、無尽蔵の知識のように思われて、単に海の知識を聞くだけでも、相当の年月をここに費して足りないとさえ思われるのです。
田山は全く駒井の知識に敬服している。人物思想の全幅《ぜんぷく》に傾倒するというには、どことなく物足りないことがあるけれど、駒井の知識の実際に根ざし、計数を基として、ねちねちと語り出されるときには、絶対無条件で敬服、聴従するのが例であって、今もその通りです。
田山はおそらく徹夜して、その駒井の持てる知識の傾注に、飽くるということを知らないでしょう。
駒井もまた、この男に語るのは、知識を捨てるのだとは思えない。自分自身すらも、研究室にあると同じほどの熱心をもって、それからそれと語り出でて、このごろは食後、そのままが直ちに研究の結果の発表になってしまったり、講壇の講義そのままになってしまったりすることが、珍しくはありません。
金椎は気を利《き》かして、蝋燭《ろうそく》を立て増してこの部屋を明るくし、炉炭を加えてこの室を暖かにし、二人が、いつまでも語り明かすに不快を起させまいと働きます。
ひとり、例のウスノロ氏――改めマドロス氏は、以前の通りそうごうをくずして横椅子の上に、たあいなくふんぞり返って、いびきをかいているばかりです。
「陸の土地は限りあるものです、海だって限りがないとはいえないが、陸に比べると無尽蔵といってよい。将来、日本でも人間が殖えて、土地が狭くなる、食物が乏しくなる、そういった時に、陸だけに眼を限らないで、海から食物を上げる、これは大切なことです。単に食物を上げるだけではいけない、それを殖やすこと……近年までは、この北の方の川、北上川だの、利根だの、最上《もがみ》だのというのに、海から盛んに鮭が上って来たのですが、近年それがトンと少なくなったということですが、いくら無尽蔵だといっても、乱暴をしてはたまらない、捕る時は盛んにとり、繁殖の道はまた、保護奨励の法を講ずるといったように、物を得るには、また物を愛しなければならないのだ」
異った方面から、駒井が食糧問題に説き進むのを、田山も充分に諒解《りょうかい》して、
「
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