、砂浜に人の足あとがあります。その形によって見れば、まごう方なき子供の足あとであります。
砂に足あとを認めたものですから、兵部の娘は、その足あとをたよりに、例の爪先走りで、砂浜を一散に走りました。
あるところは、波に洗われて、その足あとが消えているのを、ようやく探し当てて、ともかくも、その足あとの存する限り、走りつづけてみるの勇気を得たようです。
しかし、行けども、行けども、十里の平沙《へいさ》で、一方は海の波の音ばかり――暫くして、ようやく一つの人影を認めました。
その人影の、こっちに向いて走って来るのを認めたのも、いくらも経たない後のことでありましたが、不幸にして、その人影は、どう見直しても、自分の尋ね求める少年の姿ではありません。
だが、自分の走って行くと反対に、向うはこっちを向いて一生懸命に走って来るのが、ちょうど、鏡面に向って相うつしているようなもので、かくしてようやく相近づいた時は、その一方も女であることを知りました。
女は女だが、自分とはまるきり違った体格と風俗の女で、それはこの辺によく見るところの海女《あま》の一人であることに疑いもない。
裸で走って来るらしいことを認め得た時に、そう感づきました。
海岸を海女が走って来る分には、別に怪しいこともないが、いよいよ近づくにつれて、その狼狽《ろうばい》の態度が尋常ではない。何かに怖れて、あわてふためいて、走って来るのではない、逃げて来るのだとさとらないわけにはゆきません。
いよいよ、その証拠には、この海女は一糸もつけない素裸《すっぱだか》で、その着物類をさんざんに取りまとめて、小脇にかいこんで、眉《まゆ》をつり上げ、息をせき切って、せいせい言いながら、はたと自分に突き当りそうになって、はじめて気のついた海女を、兵部の娘がすれちがって見ると、海女が息づかいもせわしく、
「いけないよ、いけないよ、姉《ねえ》や、そっちへ行っちゃいけないよ」
海女は、兵部の娘の前に立ちふさがるようにして、小手を振りました。
「どうして」
「どうしてたって、お前様……」
海女は年の頃三十よりは若いでしょう。見得《みえ》も、外聞も、すっかり忘れて、
「お前様、これより先へ行ってはいけませんよ、わたしと一緒に引返しなさい、早く、早く」
「どうしてなの……」
「海竜《うみりゅう》が出たよ、海竜が……」
「海竜……」
「ああ、海竜があの塔婆《とうば》の浜のところへ出たよ、こんな角《つの》を二本|生《は》やしたのが」
海女《あま》は後ろの方を指さした手を、あわただしく自分の額《ひたい》の上にかざして見せました。
「海竜って、何なの」
「海の中にいる魔物さ、海の中にすんでいるおろち[#「おろち」に傍点]のことだよ」
「だって、何も見えないじゃないの」
「海ん中にいるから見えないけれど、底をくぐってどこへ出るか知れやしない、そこんとこらあたりへ角を出すかも知れないから、早くお逃げなさい、一緒に」
「何かの間違いじゃないの……」
「間違いどころか、たしかに見たんだよ、こんな角を二本生やした恐ろしい海竜」
海女は二度まで、指を額の上にあてがって、その形をして見せ、しきりに自分の恐怖を、相手方に移そうとつとめるらしいが、兵部の娘にはいっこう利《き》き目《め》がなく、
「それよりか、お前さん、この浜で十歳《とお》ぐらいになる男の子を一人見なくって、清澄の茂太郎といって、可愛らしい子なのよ、そうして歌をうたうのが上手な子供」
「知らねえ、そんな子供を見るどころの話か」
海竜の恐怖で唇をふるわせるだけで、こうしていることさえが不安でたまらないらしく、兵部の娘にもその恐怖を移して、警戒を試みようとするのを、兵部の娘は落着き払って、
「あら、ここに足あとがあるわ」
すり抜けて先へすすみました。
十五
それとは知らず、駒井甚三郎と田山白雲とは、食堂の卓子《テーブル》を中にはさんで、しきりに会話の興が乗っておりました。
マドロス氏はいかにと見れば、室の一隅の横椅子に背をもたせかけて、いびき[#「いびき」に傍点]を立て、仮睡《うたたね》しているところはたあいないものです。
駒井と、田山との会話が、しきりにはずむといううちにも、ほとんど駒井の諄々《じゅんじゅん》たる説明を、田山が頻《しき》りにうなずきながら聴取しているといった方がよいでしょう。
駒井の語るところは、海に関する物語でありました。海に関する物語につれて、当然、船と、魚とのことに進んでいるようです。
「そういうわけで、北緯五十度というところが日本の国境なんですが、それは寒い、冬になると氷と雪とが全く道をうずめて、人馬の往来はなり難いのです。しかし、この地球の上でです、一般にその通り、北緯五十度あたりは寒くて、ほ
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