に、襦袢《じゅばん》から着物を片腕に通してやり、帯を締めさせてやり、その醜体だけは、どうやら応急修理が出来てみると、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎が、
「水、水を一ぺえ、振舞ってもらいてえんだが、水でいけなければ、梅干を一つ……」
「食い意地の張ってる野郎だよ」
といって、お角がムキになって、がんりき[#「がんりき」に傍点]の横面《よこっつら》を一つ、ピシャリとなぐりました。
 これは少し手荒いようです。なんぼなんでも女だてらに、この際男と名のつくものの横面を、衆人環視の中でピシャリとくらわせるのは、やり過ぎたようですが、またお角の身になってみると、かりにも自分の知らないではない野郎の端くれが、こんなところで、飛んでもない、業ざらしにあい、自分としても、恥も、外聞も忘れて、助けに来てやったのに、着物を着せてもらえば、いい気になって、水が飲みたいとか、梅干が食いたいとか、贅沢三昧《ぜいたくざんまい》を言い出す恥知らず、図々しさが、我慢にも癪《しゃく》にさわってたまらないのでしょう。
 この場合、飲むことや、食うことなんぞを、言い出すべきはずのものではないと思ったからでしょう。
 しかし、がんりき[#「がんりき」に傍点]の身になってみると、着物を着るよりも、帯をしめるよりも、眼に見える醜態を隠してもらうよりも、先以《まずもっ》て、一杯の水が欲しかったのでしょう。
 決して、お角の腹を立てるように、抱かればおぶさるというような附けあがりから、水がほしいの、梅干が食いたいのと言ったわけではないにきまっている。贅沢三昧《ぜんたくざんまい》ではない、生命の必須の要求なんでしょうが、気の立ちきっているお角には、それがそうは受取れないで、一口に、附け上りの、恥知らずの、図々しさが癪にさわり、衆人環視の前でピシャリと一つ食らわせたから、見ているほどの者が、あっと驚いてしまいました。
 そうしている間にお角は、がんりき[#「がんりき」に傍点]を、遮二無二《しゃにむに》、自分の乗って来た駕籠の中におっぺし込んでしまいました。

         十一

 暮れ行く海をながめて立つ清澄の茂太郎は、即興の歌をうたいました。
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古《いにし》への人に我ありと
近江《あふみ》の国の……
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 これは、いつもながらの出任せであります。ひとたび、耳か、眼か、いずれかの器官かによって脳髄にうつったものが、時あって、口をついて現われるのは、頭脳の反芻《はんすう》とは言わば言うべきものですが、時によっては、意外なる消化をもって、全く、独創的に現われて来ることもあれば、記憶そのままが、すんなりと、暗誦《あんしょう》の形で現われて来ることもあるのであります。
[#ここから2字下げ]
古への人に我ありと
近江の国の……
[#ここで字下げ終わり]
 ここまでは、はからず口をついて出たでたらめでありますが、近江の国の……と口走ったところから、
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近江の国の
ささ波の
大津の宮に
天《あめ》の下《した》
知ろしめしけむ
すめろぎの
神のみことの
大宮はここと聞けども
大殿はここといへども
春草の……
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と咽喉《のど》が裂けるほどの声で歌い出しました。これは創作でもなければ、出任せでもない。故郷の荒廃を見て、豪邁《ごうまい》なる感傷を歌った千古不滅の歌であります。
「あっ!」
 この豪邁なる感傷の歌を声高く歌って、暮れ行く海の表《おもて》をながめている時、不意に潮が満ちて来て、その足もとを洗ったものですから、茂太郎が、あっ! と驚きました。
「ああ、もう日が暮れちゃった」
 足を潮に洗われて、はじめて自分の空想も消えるし、感興の歌も止まるし、日の暮れたことがわかりました。
 夕陽《ゆうひ》の空には、旗のような鳥だの、垂天の翼のような雲だの、赤く、白く、紫に、菫《すみれ》に、橙《だいだい》に、金色《こんじき》に変ずる山の形だの、空の色だのというものが、見る眼をあやにしたり、心をおどらせたりするけれど、その夕陽が全く落ち尽して、一色の墨色が、天と、地と、水を、塗りつぶしにかかってみると、自分の空想も塗りつぶされて、現実のわれに返ったものと見えます。
 そこで、この少年は、またも一散《いっさん》に砂浜の上を走りつづけました。
 後生大事《ごしょうだいじ》に、般若《はんにゃ》の面《めん》を小脇にかかえて放さぬことは、いつもに変ることなく、軽快に砂原を走って、あえて疲れ気も見えないことは、山神奇童とうたわれた名にもそむかないようです。
 なお、こうして走ることは走るが、その目的がわからないのも、以前と同じことで、ともかくも、あの馴染《なじみ》の多い駒井の家を遠く離れてしまって、あえて帰りを恋しが
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