ろうともしないのが不思議です。
砂浜を走れるだけ走って、かなり走り疲れたと思う時分に踏みとどまり、ようよう暗くなってゆく海の波がしらの白いのを、ながめて、こう言いました、
「弁信さん、弁信さん、さっき、お前が、しきりにあたしを呼ぶものだから、あたしはこうして飛び出して来たんだぜ、あの赤い空の上に、不意にお前の姿が現われたじゃないの……だから、こうして、ここまで走って来ちゃったのよ。ここまで走ってくると、お前はもういないし、日もくれちまったじゃないの。これからあたしは、どうすればいいの」
耳を傾けても、波の音ばかりで、返事をする声が聞えないのに、
「さあ、どうしたらいいの、ここは海で、これより先は行けないじゃないの、これから、どっちへ行けば、あたしはお前に逢われるの?」
茂太郎の耳には、やはり弁信の呼びかける声が聞えて、その返事を待つもののようです。
海の表に向って、耳をすましていたが、やはり人間の声はどこにも聞えない。
「お腹《なか》がすいちゃった」
茂太郎は、クルリと向き直って、陸《おか》の方を見直しました。
洲崎《すのさき》の番所では蒸したてのジャガタラ芋《いも》の湯気を吹き吹きお相伴《しょうばん》になれようものを、ここまで来てしまっては、今の夕飯が覚束《おぼつか》ないのみでなく、今晩の泊る所もわかるまい。
だが、その、今晩のねぐらはさほど心配するがものはない。この少年は、山に寝て獣《けもの》を友とする方が、人里に住むよりは遥《はる》かに得意なはずだから――
食物のことも、また、さのみ他で心配するほどのこともないのです。竜安石のように海につかっている巌角の傍へ寄って、身をかがめると、片手には例の通り、般若の面を、しっかり[#「しっかり」に傍点]と抱いたままで、右の手を、竜安石の下の蛸壺《たこつぼ》になっているようなところへ突っ込むと、暫くして、極めて巧みに掴み出したのは、六寸ほどの蛸であります。
それを巌《いわ》の角へ持って行って軽く当てると、すんなりと延びたのを、そのまま口へ持って行って、頭からガリガリとかじりました。
片腕には般若《はんにゃ》の面をかかえ、片手では生《なま》の蛸をかじりながら、今度は海をながめると、星がキラキラとかがやいています。
この子供は、地の美しさよりも、海の美しさよりも、天上の星を見ることの美感に酔うことを知っているものですから、蛸を食べながら、夕陽の美観に、失われた幻想を、空から仰いで取返しながら、下を見ないで歩いて行くもののようであります。
こうなってみると、もう南北の区別を知らない、東西の差別もわからない。星を見れば、それはおのずから、わかりそうなものだが、今は方角の観念のために星を見ているのではないから。
「あっ!」
と再び、驚愕《きょうがく》の叫びを立てた時は、その足もとが一尺ほど、潮にひたされているのを発見しました。あわててそれを抜け出そうとした時に、引きつづいて、第二の波が追いかけて来ました。
「あっ!」
逃げようとする子供の足よりも、追いかけた波の方が早かったものですから、腰から下を、ズブリとぬらしてしまいました。ただ足を洗い、着物をぬらしただけならいいが、よろめく足もとを、引き際の潮がさらったものですから、よろよろよろよろとして、潮に伴われて、なお深い方へ持って行かれてしまったのはぜひもありません。
「あっ!」
この際、片手には生の蛸《たこ》、片腕には般若《はんにゃ》の面、そのどちらをも、急に手ばなすことをしなかったものですから、よけい、足もとを立て直すのに苦しかったのでしょう――そこへ、すかさず第三の波。
茂太郎の立ち姿が、もはや水平の上に見えなくなったのも無理はありません。
見えなくなったのみならず、いつまで経っても浮いて来ないのであります。
ここで、この子供は、完全に海に呑まれてしまったことがわかります。
だが、これも、さほど心配するがものはありますまい。今夜は別に暴風というほどでもない、むしろ滅多にはないほどに、海は和《やわ》らかなのであります。
そうして、山神奇童の茂太郎は、山に入って悪獣毒蛇を友とすることができるように、海に入っても魚介《ぎょかい》と遊ぶことを心得ているのだから、今夜の、この静かな海の中の、どこへ沈められたからといって、豚の子のように、沈みっきりになってしまう気づかいは絶対にありません。
そのうちに、どこぞへ浮いて来るに相違ないから――どなたも心配をしないで下さい。
十二
茂太郎が陥没して、まだ浮き上らないところの地点の、忍冬《すいかずら》の多い芝原に、そんなことは一切知らないで、一人の太った労働女が現われて、
「どっこいしょ」
と言い、重い荷物を背中からドシンと、その芝原の上に卸《おろ
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