「がんりき」に傍点]の行先を、縦からながめて、しきりに笑止がっていました。
絶体絶命のがんりき[#「がんりき」に傍点]は、そんなどころではない。逃げるには逃げるが、せっかく、ここまで来て、海へ方角を取ることを忘れてしまったらしい。それとも、海への出端《でばな》も、塞がれてしまったと覚ったのかも知れない。いいあんばいに、手薄の方へ飛び出したなと思っているうちに、また急に逆戻りをして、以前の唐人小路の真中をかけ出してしまいました。
たしかに血迷っている。いったん、逆戻りして北へ向って走ったのが、とある町角へ来ると、またしても南へ向きを変えて逆戻り、それがまた海岸方面へ出ると、
「あ、いけねえ――」
またしても、梶《かじ》を北の方へ取戻す。これでは、同じところを往来をしているようなものです。追っかける方も同じことで、がんりき[#「がんりき」に傍点]が南へ行けば南へ行き、がんりき[#「がんりき」に傍点]が北へ戻ればまた北へ戻る。そうして、つかまりそうで、つかまらないことは、いつになっても同じです。これではかけっこ[#「かけっこ」に傍点]のおいたちごっこ[#「おいたちごっこ」に傍点]をしているようなものだから、ばかばかしいこと夥しいが、それでも、逃げる方も血眼《ちまなこ》であり、追う方も血眼であり、結局、足の達者な方が、長続きがして、足の弱い方が、早くくたびれるという尋常の法則を繰返すだけのものに過ぎまい。
山崎譲は、この駈足のどうどうめぐりを、面白がって辻番の前で見物していたが、
「どうでしょう、奴、逃げられましょうか、うまく逃げおおせられますかな」
小田原藩の足軽の一人が、傍《かたわ》らからマラソンでも見るような気分で、問いかけたものですから、山崎譲が、
「結局は逃げられるだろう、あれだけ違うんだからな。奴、血迷っているから、抜け道がわからないんだ、うまく抜け道を見つけ出して、海岸へ走らせた日には、もうおしまいだ」
「逃がしちゃいけませんよ」
「逃がしちゃいかんよ」
「どうです、どちらもかなり疲れたようだが、なんとか方法はありませんか」
「どうも仕方がないね、鉄砲で撃ちとめるわけにもゆくまい、弓で射て取るがものもあるまい、やるだけやらせるさ」
「しかし、そう言っているうちに、逃がしてしまっちゃ詰りませんよ」
「逃がしちゃいかんよ」
「でも、足の業《わざ》から見て段が違いますからな、あれあの通りだ、一方が三間走るところを、一方は僅か二三尺ですからな、あれで、抜け道を見つけ出した日にゃたまりません」
「左様、奴、いつもなら、とうにその抜け道を見つけてるんだが、今日は不意を食ったもんだから、いよいよ血迷ってやがる」
「あ、やりましたぜ、一太刀あびせられた奴がありましたよ、立ちふさがった奴が一人やられましたよ。ごらんなさい、あの通りくも[#「くも」に傍点]の子を散らしたように逃げ出しました。こいつもおかしい、人が散って手薄になったのに、奴、またこっちへ舞戻って来ますぜ、何をしてるんだ。ああ、危のうござんすよ、血刀を振《ふる》って真一文字にこっちへ向いて来ましたぜ、いよいよ絶体絶命だ、何をするかわからない!」
足軽が怖れをなして、タジタジとなるその六尺棒を、山崎がひったくって、
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、くたびれたろう」
「え、何が、何がどうしたんだ」
「がんりき[#「がんりき」に傍点]、御苦労さまだ、その辺で一休みさせてやろうか」
「あ、譲先生ですか、人が悪い、第一お前さんが悪いんだ!」
山崎譲は四五間離れたところから棒を飛ばして、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百蔵を地上に打ち倒してしまいました。
打ち倒したがんりき[#「がんりき」に傍点]の傍に山崎譲がよって来て、仰向けに倒れていたのを、比目魚《ひらめ》を置き返すように、俯伏しにひっくり返してその帯を取り、着物を剥ぎ、懐中物、胴巻まですっかり取り上げて、本当の裸一貫として、その後――両手ではない片手を、十分にひろげたところへ、例の六尺棒を裏へあてがって、手早く棒縛りを試みてしまいました。
そうして全く動けないようにして、また比目魚を置き返すように表を返して、大道の真中へ、置きっ放し、
「誰も手をつけると承知しねえぞ」
こういって山崎譲は、がんりき[#「がんりき」に傍点]から剥ぎ取った着物、持物、その懐中物、胴巻に至るまで、一切まとめて小脇にかいこみ、ふらりとその場を行ってしまいます。
その後、がんりき[#「がんりき」に傍点]が仰向けにひっくり返されながら、弱い音《ね》を吹いて、
「結局、弱い者いじめだなあ。南条先生、五十嵐先生、あんなところをあのままにして置いて、このがんりき[#「がんりき」に傍点]だけに、窮命を仰せつけようなんて、弱い者いじめだなあ。だ
前へ
次へ
全94ページ中27ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング