か》かれるようでは、がんりき[#「がんりき」に傍点]としても浮びきれない。
よし、こうなった以上は、二三人はたたき斬っても本街道まで出てしまえ、天下の東海道筋へ出て、そこでつかまるなら、つかまっちまえ、人の垣根の下を、つくばって走るような真似《まね》は、この際みっともねえ……
がんりき[#「がんりき」に傍点]は、そんなふうに見得《みえ》を切って、いったん路地奥へ逃げ込んだのを、引っぱずして、いわゆる天下の東海道筋を望んで走り出したが、それはいよいよ油を背負って火に向うようなもので、追いかけるほどの者は、誰でもがんりき[#「がんりき」に傍点]の後ろ姿を見ることができるから、総弥次で、それを追っかける形となる。単に追っかけるだけなら覚えがあるが、前からふさがるのではたまるまい。
ちょうど、その時分が、お角が起き上って面洗《かおあら》いに出た時分で、窓の外で御用騒ぎを聞くと、はっと胸をヒヤしたのは、その騒ぎに狼狽したのではなく、御用という声の途端に、
「さては!」
と思ったのであります。なんだか、それが必然的に、昨夜来の頭に上って来たところとうつり合って、その御用の主《ぬし》が、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百でなければならないように直覚してしまった。それがお角の胸をヒヤしました。
それで万一には、百がここへ逃げ込んで来たらどうしよう。その場合は、昨晩のとは性質が全く違うから、それは見殺しはできまい。いやな奴であろうとも、なかろうとも、ここはかくまってやらねばなるまいと、お角は早くも心構えをして、手水《ちょうず》もそこそこに座敷に帰って、戸棚の中なんぞを調べてみたりして構えていたが、外の騒ぎはかなり騒々しいのに、ここへは虫けら一匹も飛び込んでは来ない。
「どうしたんだね、あの騒ぎは」
なにげなく例の女中さんにたずねてみると、それは、この小田原の出城《でじろ》の一つで、荻野山中《おぎのやまなか》の陣屋を焼討ちした悪者が、この城下へまぎれ込んだものだから、それをつかまえるためにあの騒ぎだと聞いて、おやおや、それは少し当てが外《はず》れたかな、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百も、相当の悪党がりではあるが、陣屋を焼討ちするようなことはすまい。では、自分の想像が、すっかり外れたのだ、御用の主は、もっと大きな魚なのだ――それで安心のような、不安心のような思いをしながら、朝飯を食べる。
一方、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、しにもの狂いで小田原の町々、辻々を、かけめぐっているが、前に立ちふさがる者も、後ろから追う者も、どちらもその姿をありありと認めながら、どうしても簡単にはつかまらない。
百の駈足が、想像外にはやいのみならず、その身のこなしが、油のように滑《すべ》っこく、ちょっとやそっと捉まえたのでは、ツルリツルリと抜けられてしまうのみならず、今は片手に脇差を抜いて振り廻しているのだから、せっかく追いつめたものも、立ちふさがったものも、キワどいところでいなしてしまう。
そこで、無人の境を行くようなあんばいで、唐人小路まで走って来た時分、この辺を突破されると、まもなく海辺へ出るのだが、海辺へ出られてしまっては事だ。
やはり、その時分のこと、例の講釈師南洋軒力水と、その弟子分になっている心水という二人が、江戸へ下るとてちょうど、この唐人小路へ来合わせたが、
「おやおや、がんりき[#「がんりき」に傍点]がやって来たぜ」
「面白い、面白い、死物狂いでやって来た」
「奴、つかまるか知ら」
「なあに、あいつが、なまなかのことで、つかまるものか」
「でも、あぶないもんだ、一番、助け船を出してやろうか」
「よせよせ、打捨《うっちゃ》っておけ、けっこう、一人で逃げおおせる奴だよ」
この講釈師は申すまでもなく、南条力と、五十嵐甲子男の二人であり、長いこと、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百を手先として使用していながら、その危急を見て、面白がって見殺しにしているのは、頼もしくないこと夥《おびただ》しい話であるが、一方からいえば、がんりき[#「がんりき」に傍点]の敏捷《びんしょう》を信じきって、捕手の働きにタカをくくっているとも見える。
そうして、その死物狂いの逃げっぷりを面白がって、足をとどめてながめているが、ながめられるがんりき[#「がんりき」に傍点]の方は、たしかに冗談事ではなく、大童《おおわらわ》で、眼は血走って、脇差を振り廻しながら、唐人小路を走る時には、人の悪い南条と、五十嵐との姿は、いつか見えなくなってしまう。
その時分、唐人小路の辻番のところに立って、往来をながめていた山崎譲が、
「やって来たな、がんりき[#「がんりき」に傍点]め、丸くなってやって来やがった」
これも、面白がって、命がけで逃げて来るがんりき[#
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