がらせをやるにきまっている。もしかした差しさわりで、今晩来なければ明日、つまり江戸へ着くまでの間には必ず、何か皮肉な仕打ちで現われて来るに相違ない。
 してみれば、それに対するの応戦計画として、こちらにも了見がなければならないと、意地張り出したのがよけいなことです。
 お角は、その晩、どうしてやろうかと思いました。
 向うの、いたずらの裏を行って、こっちがほかの男と枕を並べて見せて、忍んで来た奴の立場を失わせたら、痛快だろう――だが、差当って、その相手に選ぶべき役者がない。
 ともにつれて来た若いのなんぞを使ってみたのでは、子供だましにもならない。
 お角の、いたずら心が挑発されて、せっかくのことに、がんりき[#「がんりき」に傍点]のために、思いきった濃厚な当てっぷりを見せてやろうと、むらむらしたが、どう考えてもこの場合、相手に選ぶべき役者がない。
 そうこうしているうちに、踏み込まれでもした日には、台なしだ。こいつは一番――どうしてくれよう。この際、早急に、ふざけたいたずら[#「いたずら」に傍点]者に閨《ねや》の外で立場を失わせ、今後をきっと慎《つつし》ませるような手きびしい狂言はないものか――この、さし当っての狂言の選択には、お角もてこずってみたが、とうとう名案が浮ばず、旅の疲れがおっかぶさって、ついうとうとと夢に入ると間もなく熟睡に落ちて、眼をさました時分には、夜が明けていました。
 全く無事で、がんりき[#「がんりき」に傍点]のが[#「が」に傍点]の字も聞えず、今日もいい天気で、障子の外に老梅の影が、かんかんとうつっている。

         十

 果して、お角の想像にたがわず、がんりき[#「がんりき」に傍点]の百は、たしかに小田原の町へ乗込んでいて、お角がまだ床を離れない時分に、早くも八棟《やむね》の外郎《ういろう》に、すました面《かお》で姿を見せたのがそれです。
 この男が、南条、五十嵐の手先となって、案内者ぶりをしているのは、今にはじまったことではないが、このごろでは、どうやら山崎譲の方とも妥協が出来て、ずいぶん、その方の御用もつとめているらしい。
 当人は、のほほんで、両方のお役に立ち、その間に自慢の女漁《おんなあさ》りと、旨《うま》い汁を吸うつもりでいるらしいが、相手が相手だから、いつまでも、そんな虫のいい商売が続くものではなかろうが、こっちもこっちだから、いいかげんにタカをくくっているものらしい。
 何のつもりか、外郎《ういろう》を二丁買い込んで、それを胴巻の中へ、しまおうとする途端に、店頭《みせさき》の一方から不意に、
「御用!」
 当人にとっては、お約束のような掛声で、やにわに組みついて来たのを、そこは心得たとばかり、体《たい》を沈めると、組みついた手が外《はず》れるのをキッカケに、するりとすり抜けて、表へ飛び出したのは型のような鮮かさで、それから後は得意の駈足です。
 御用の声が、二三人、透《す》かさずそのあとを追っかけて、小田原の町の朝景色を掻《か》き乱す。
 当人は心得きっているのだから、ここを逃げるのは、それこそ本当の朝飯前だ。山谷《さんや》や袋町の行詰りとは違い、四通八達の小田原城下を、小路小路まで案内知った常壇場《じょうだんば》のようなものだから、がんりき[#「がんりき」に傍点]としては、子供相手に鬼ごっこして楽しむようなものかも知れないが、大手通りの町角で、また不意に飛び出した、
「御用!」
の声に面食《めんくら》って、
「こいつは、いけねえ」
 敵に用意のあることを知ったがんりき[#「がんりき」に傍点]は、ここで真剣になりました。寄手《よせて》はもう、ちゃんと手筈をきめて、つまり非常線を張って自分を待ちかけているのだ。それを悟らずに、甘く見てかかったのは手落ちだ。この分では、袋の鼠にされちまっている。
「ちぇッ、ドジを踏んじまった」
 がんりき[#「がんりき」に傍点]は、自分をたのむだけに、相当に敵をも知っている。たとえ行止りであろうとも、一方から追われる分にはなんでもないが、白昼、しかも城下町で、非常線を張って包まれた分には、たまるまいではないか。何だって、外郎なんぞを買いに出たんだろう。いよいよおれもヤキが廻ったかなと、歯がみをしたが、やはり同じように、御用の手先をスリ抜けて、真直ぐに走ると大手門の前へ出る。ますますいけない。引返そうとすればさいぜんのが追いかけて来る。ままよ――横っ飛びに飛んで、侍町の生垣《いけがき》の下を鼠のように走ると、御用の声を聞き伝えた家並《いえなみ》が騒ぎ出す。
 夜ならば、身をくらます手段はいくらもあるのだが、こうなっては、どうも仕方がない。屋根へも上れず、井戸へも飛び込めない。突当り路地へでも追いつめられて、ギュウの音も立てず、名も無き敵に首を掻《
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