たのですか。いかがでございました、あの道場には、べつだん変ったこともございませんでしたか」
「イヤ、べつだん変ったことも……」
「わたしも久しく御無沙汰をしましたから、これから出かけてみるつもりでございます、皆様によろしく……」
といって、女は蛇の目の傘をさすというよりはかぶって、また悠々閑々として、萱戸《かやと》の路を行きかかりますから、暫くは件《くだん》の武者修行も、呆然《ぼうぜん》としてその行くあとを見送っていたということです。しかし、やがて気がついて、後ろから呼び留めて言いました、
「もし……」
 けれども、蛇の目に姿を隠した女は、再び振返ってその面《かお》を見せようとはしないで、
「はい……」
 返事だけが、やはり透きとおるような声であります。
「あなたは、お一人で、その八幡村から、これへおいでになったのですか」
「はい……」
「して、またお一人で、これから武州沢井までお越しになるのですか」
「はい……」
 武者修行は、そこでもう追いすがる勇気も、正体を見届けくれんの物好きも、すっかり忘れてしまっていたそうです。
 その時、青天白日、どこを見ても妖雲らしいもののない、空中がク
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