いよ過ぐる日の武者修行も、思わざる所で、ひょっこりとお松の出現に驚き、それを大菩薩峠の上に移して、話に花を咲かせたと見れば見られないこともありません。
そういった場合、お松自身には、そんなきどり方はないとしても、こういった山里で、ひとたびは京の水にもしみ、ひとたびは御殿づとめもした覚えのある妙齢の娘が、不意に、木の間、谷間から現われ出でた時は、少なからぬ驚異を誘うのも無理のないことであります。
そんなところからお松の生活を見れば、詩にもなり、絵にもなりましょうが、お松自身にとっては、この頃ほど自分の現在というものに、喜びを感じていることはありません。
人の現在を喜ぶのは、多くの場合、過去の経験を忘れ、未来の希望を捨てた瞬間の陶酔に過ぎない浅薄な喜びになり易《やす》いが、お松のは、たしかにそうでなく、もはや、自分の立つ地盤の上に、この上のゆらぎは来ないだろうと思われるほど、自分ながら堅実を感ずるの喜びでありました。
人生、喜びを感じない人はあるまいが、またその喜びの裏に、不安を感じないという人もありますまい。
喜びが大きければ大きいほど、後の不安が予想される喜びに住みたくはない
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