ものです。
お松は、自分の生涯が、もうこれで定まったとも感じません。これより後の前途は、平々淡々なりとも安んじてはいないが、少なくともこの道路に、これより以上の陥没はない、これよりは地を踏みしめて行くだけが、自分の仕事である――というような心強さは、ひしと感じています。
夜になると、お松は夜ふくるまで針仕事をしていることがあります。
道場の方で藁《わら》を打つ音。それと共に縷々《るる》として糸を引くような、文句は聞き取れないながら断続した音律。お松は針先を髪の毛でしめしながら、
「また、与八さんがお経をはじめた」
与八が東妙和尚からお経を教えられて、しきりにそれを誦《ず》しているのは、今に始まったことではありません。
それは何のお経だか、与八自身も知らないはずです。或る時、東妙和尚に尋ねてみたら、和尚のいうことには、
「お経はわからないで読んでこそ有難味がある、ただ、有難いという有難さをみんな集めたのが、このお経だと思って読みさえすればよい、お経がわかると、有難味がわからなくなる」
そう言われたから与八は、言われた通りに信じて、わからないなりに誦していることを、お松はよく
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