わたしは故郷へ帰れません……
そうかといって、身二つになるまでここに保養をしていて、それからどうなるのです。どちらを行ってもすたり物ではありませんか。
身持になった身をいだいて帰っても、生み落した子を……こんなことを書くのさえ、何ともいえないいやな気がしますが、その子を抱いて帰っても、人の冷笑の痛さは同じではありませんか。
どのみち、わたしは鉄のような仮面をかぶるか、或いはこの良心というものを、石ころのようにコチコチにした上でなければ、人様の前へは出られないのです。
……わたしは、そうまで鉄面皮《てつめんぴ》というものにはなれません。

弁信さん……
わたしは死んでしまいたい気がします。
そんな恥かしい思いをするくらいなら、いさぎよく自殺した方がよい。死んでしまいたい」
[#ここで字下げ終わり]

         十

 その晩、この温泉の炉辺《ろへん》の閑話に、一つの問題が起りました。
 近頃、山々へ登る人が、よく山々を征服[#「征服」に傍点]したという。征服の文字がおかしいという者がある。おかしくはない、古来人跡の未《いま》だ至らなかったところへ、はじめて人間が足跡をしるすのだか
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