]を消せばよかった」
 忠弥組の第二、関太郎が残念がる。
 とにかく、手に入れたもの同様にかたわらへ置いたのが、あの際、見つからなくなったのは不思議だ――と、どこまでも解《げ》せない顔だが、この連中は深く頓着はしないらしい。
 ただ、あれが幕吏の手に見つかった時は大騒ぎになるだろう。いまごろは血眼《ちまなこ》になっているかも知れない。かぎ縄や、石筆や、マッチの類は、由々しき犯罪の証拠品となるだろうが、あの炭団《たどん》ばかりは、何のためだか見当がつくまい、と笑う者がある。
 けだし、この連中は、かねての目的通り、江戸の城中へ火をつけに行ったものに相違ない。そうして今夜の瀬踏みが見事にしくじったので、やけ酒を飲んで気焔を揚げているとも見られるし、また、ある程度まで成功した祝杯を揚げているようにも見られる。
 ともかく、これだけに味を占めた上は、早速また、第二回目の実行にとりかかるに違いない。
 彼等は、何の恨みあって、こんなことをするのか。なんらの恨みがあってするわけではない、人にたのまれてするのである。人とは誰。それは西郷隆盛に――
 西郷隆盛は、益満《ますみつ》休之助、伊牟田《いむだ》尚平らをして、芝三田の四国町の薩摩屋敷に、志士或いは無頼の徒を集めて、江戸及び関東方面を乱暴させ、幕府を怒らせて、事を起すの名を得ようとしていることは、前にしばしば記した通りである。
 この、成功か失敗かわからない乾杯があって後、この一座の、鰻《うなぎ》を食いながらの会話は、忍術の修行の容易ならざることに及ぶ。
 一夜づくりの修行では、やりそこなうのは当然だ、といって笑う。
 いったい、盗賊というやつは、先天的に忍術を心得ているのだろう、という者がある。
 いや、忍びに妙を得ているから、盗賊がやってみたくなるのだろう、という者もある。
 盗賊としての条件は、第一、忍ぶことに妙を得て、第二、逃げることに妙を得なければならぬ、身の軽いと共に、足が早くなければならぬ、という者がある。
 僕の方に、一日のうちに、日光まで三十余里を行って戻る奴がある、と落合直亮がいう。
 いや一橋中納言の家中には、駿府《すんぷ》から江戸へ来て、吉原で遊び、その足で駿府に帰る奴がある、という者がある。
 信州の戸隠山から、一本歯の足駄で、平気で江戸まで休まずにやって来る者がある、という。
 そんな雑談から、ついに石川五右衛門論にうつる。
 五右衛門は、果して忍術の達者であったろうか、という説。
 五右衛門を、盗賊として見るべきか、刺客《せきかく》として見るべきか、の論。
 盗賊でも、刺客でもない、彼は一種の英雄として見るべし、という讃。
 左様な議論で火花を散らして、さんざんに飲み且つ食い、この四人は八官町の大輪田を辞し、大手を振って、例の四国町の薩摩屋敷に入ったのは、夜の白々《しらじら》と明けそめた時分でありました。

         六

 同じ日の同じ時刻。七兵衛は、やはり三田四国町の、薩摩屋敷に近い越後屋というのにはいり込み、わらじを取ったままで食卓の前に、どっかりとすわり込みました。
 この時の七兵衛も無論、もと通りの七兵衛になって、なにくわぬ旅の百姓でありましたが、この広い座敷には、七兵衛ひとりです。
 ここは、薩摩屋敷の豪傑がよく出入りするところ。料理屋にして、また酒保を兼ねているところ。百人以上も会合ができるようになっている、その座敷のまんなかに七兵衛ひとり。
 日中には眼の廻るほど忙しい店。こう早い時にはガラン堂のようなものです。そこで七兵衛も誰|憚《はばか》らず、とぐろを巻いているところを見れば、もう相当にこの店とは熟していて、木戸御免に振舞うだけの特権があるもののように見える。やがて七兵衛は、ズルズルと革の袋を一つひっぱり出して、その中へ手を差入れて、まず取り出したのがきせる[#「きせる」に傍点]と、煙草入。
 それを目の子勘定のように食卓の上に置き並べ、次に取り出したのが新しい摺付木《マッチ》であります。
「ああ、摺付木、これだ、これだ」
とほくそ笑みして、その箱を押して、一本のマッチを摘《つま》み出し、食卓の上の金具に当ててシューッとすると、パッと火が出たからまぶしがり、あわててそれを煙管《きせる》にうつそうとしたが、あいにくまだ煙管には煙草が詰めてなかったものだから、大急ぎでその摺付木を火鉢の灰の中へ立て、あわただしく煙管へ煙草をつめて、その燃え残りの火にあてがい、大急ぎで一ぷくを試みて、その煙を輪に吹いて、大納まりに納まりました。
「重宝《ちょうほう》なもんだて。どうしてまた毛唐《けとう》は、こんなことにかけては、こうも器用なんだろう。これを使っちゃ、燧石《ひうちいし》なんぞはお荷物でたまらねえ」
 七兵衛は、今更のように、マッチの便利重宝
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