を、讃美渇仰せずにはいられない。
それから、煙草の吸殻をポンと手のひらに受けて二ふく目を吸い――三ぷく、四ふく、その煙をながめては、ヤニさがっていたが、暫くあって煙草をやめ、また思い出したように、以前の革袋へ手を入れて、
「何だろう、このゴロゴロした丸いやつは?」
首をひねりながら引き出して見ると、それは紙に包んだ炭団《たどん》でありましたから、七兵衛が、コレハ、コレハとあきれました。
炭団が出て来やがった、何のおまじないだろう――合点《がてん》がゆかない心持で、その炭団をまた一つ一つ食卓の上に置き並べ、それをながめて、ははあ、やっぱりこれは火つけだな、と思いました。
江戸城へ火をつけるつもりで、あの連中は忍び込んだのだな――なるほど、かんなくず[#「かんなくず」に傍点]かなにかに炭団《たどん》を包んで、火をつけて置けば、念入りに燃え出す。爆裂玉《ばくれつだま》のように、急にハネ出すこともなし、油のように、メラメラと薄っぺらな舌も出さず、くすぶり返って気永に焼くには、炭団に限ると思いました。
七兵衛がこうして納まり返っているけれども、この広い座敷へは、無論、夜明け早々からの客のつめて来るはずもなし、そうかといって、主人なり、雇人なりがいるならば、とがめないまでも、何とか言葉をかけそうなものを、そんな気配は更になく、ひっそり閑《かん》としたものですから、七兵衝は炭団を肴《さかな》に、また煙草をのみはじめ、座敷の中を見るとはなしに見まわしているうち、なんとなく無常の感というものにでも打たれたように、大きな溜息《ためいき》をついて、壁の一隅につるしてある薩摩屋敷の轡《くつわ》の紋のついた提灯《ちょうちん》を見て、じっと物を考え込んでしまいました。
「つまらねえな」
七兵衛が思わず口走った時分に、平常《ふだん》ならばお銚子の一つもかえて、まぎ[#「まぎ」に傍点]らかそうというものだが、この時はそれができないで、
「つまらねえなあ、ほんとに……」
七兵衛は煙管《きせる》を取落して、炭団をつくづくとながめました。
七兵衛は今、急につまらなく、情けなくなって、あぶなく涙をこぼそうとしました。
昨夜、七兵衛はあれから、江戸城内のどこまで忍び込んで、どこを出て来たかわからないが、夜が明けて見ると、なんとなくうちしおれていたのが、今になって一層目につきます。
彼は、たしかに江戸城内を抜け出してきての今、
「浅ましいことだ」
という感慨が、ひしと胸にこたえているものらしい。
何が浅ましい。自分のしたことが浅ましいのか、周囲の見るもの、聞くものが浅ましかったのか。七兵衛の胸に折々、里心《さとごころ》が首を持上げるのは、今にはじまったことではないが、この時は、特に何かの感じが激しくこみ上げて来たと見えて、ほとんど涙を落さぬばかりに浅ましい色を見せましたが、気をかえようとして取り上げたのが、杯《さかずき》ではなくて、火の消えた煙管でしたから、それが一層、七兵衛をめいらせるような気持にして、
「よくばち[#「ばち」に傍点]が当らねえものだなあ」
とつぶやいて、煙管を投げ出しました。
七兵衛は常々そう思っている。何でも人の尊敬すべきものは尊敬しなくちゃならない。神仏が有難いといえば、有難がるのが凡人の冥利《みょうり》だ。長上をうやまえといえば、無条件にうやまうのが人間の奥ゆかしさだ。理窟も、学問も、いった事じゃない。尊敬と、服従の、美徳がうせては、人間の社会が成立たないじゃないか。
それに、どうだ、おれに向って、大奥の間取りを見て来てくれとたのむ奴がある。たのまれるおれという奴も、またおれという奴、来て見れば、またそれにいっそう輪をかけた奴があって、城ぐるみ焼いてしまおうという。
浅ましい世の中だ。お上《かみ》に対する人間の尊敬心というものが、地を払ってしまったのは、お上に威厳がないのか、人間がつけ上ってしまったのか。さてこの上の世の中が、どうなるだろう。七兵衛も今はそれを考えて、空恐ろしくなったもののようです。
その持って生れたような盗癖を別にしては、七兵衛は、むしろ律義《りちぎ》な男です。
昨晩、江戸城内を抜け出して来た七兵衛の頭では、公方様《くぼうさま》は決して悪《にく》むべきお方ではなく、むしろかわいそうなお方である。その悪むべからざる公方様を目のかたきにして、これを陥れようとたくらむ奴等の気が知れない。
よく人の話では、薩摩に西郷という男があって、それが手下の者をけしかけ、この四国町の薩摩屋敷に、ならず者を集めて乱暴をさせ、そうして公方様を怒らせて、日本を乱そうとするたくらみだと――その西郷という男は、公方様に何の恨みがあって、そういうことをするのだろう。天下というものを取るには、そういうことをしなけりゃならねえの
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